「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

何かに集中する

 

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一年ぶり、信州へのドライブ旅行。
何も考えず、いや、色んなこと考えながらの一人ドライブ。
何かに集中することは楽しい。

 
松本からの帰り道、ヴィーナスラインで霧ケ峰に向かう。
前回は雨の中のレイニードライブ、それはそれで非日常的な光景に感動する。
今回は梅雨明けの日本晴れ、やっぱり晴天の中を走り抜ける霧ケ峰は格別だった。
なんと富士山まで見える、あー、日本って、地球って素晴らしい。

 
アマゾンの創業者が民間ロケットに乗って宇宙旅行に行ったらしい。
地球の姿に感激したってさ。
遠くから見るより近くで見たほうがもっときれいだよ、そう教えてあげたい。

 
僕らは、何処かに行かなきゃ特別なものには出会えないと思っている。
今いる場所にある特別なものには気がつかない。
気づくか気づかないかは自分次第。

 
だから、もっと耳を澄ましてみる、目を凝らしてみる、色んなものを感じてみる。
僕らは気づき感じ、何かを生み出すことができる。
そのきっかけも自分次第。

 
いつもの会社へ通う道、いつもと違う路線で行ってみる。
ささいな変化、ちっぽけな冒険。
それでも新しい何かに気づくかもしれない、出会うかもしれない。
そんな毎日を送りたい。

 
中央高速から府中競馬場が見えてきた。
むかし聞いた歌を思い出す。
中央フリーウエイ、口ずさみながら、その時の気持ちを思い出す。
あのころと違う今の自分の気持ちにも気づく。

 
やっぱりドライブは最高だな。
 

戦うことは本能なのか?

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オリンピック、始まる前は不祥事てんこ盛りでエライ騒ぎ。
でも、やっぱり始まってしまえば大盛り上がり。
つくづく僕らはお調子者の単純な生き物だと思います。

 
このオリンピック、当然ながら国同士の競い合い、戦いの場。
スポーツマンシップに則ってとはいいますが、勝つか負けるかの真剣勝負。
自分の生まれた国を背負って戦うのがオリンピック。

 
ここで思うわけです、なぜ僕らは生まれた国を背負って戦うのでしょう?
そりゃ、自分の国には愛着もあるし、そこで暮らす人たちとの一体感もある。
それが文化だし、もしかしたら、もっと根源的な生物学的なルーツによるものなのかもしれない。

 
でも今回「多様性と調和」が大会理念として掲げられている。
男女はもちろん、トランスジェンダーなどLGBTの方も含めて互いに相手を認め合う大会。
世の中まさしくダイバーシティってやつ。

 
でも、ダイバーシティって人種、性別、年齢、信仰などにこだわらずに多様な人材が活躍できる社会ってこと。
だったら生まれた国に分かれて競い合うオリンピックって・・・、なんてことも思う。

 
野球だって、メジャーリーグのあの球団でプレイしたい、そんな理由で海を渡るのが当たり前の現在。
自分が活躍したい場所、プレイしたいチームで、そこに集まった多様な人材と競い合う方が何だかしっくりくる。
これこそダイバーシティなんじゃないだろうか。

 
結局オリンピックって、戦争をスポーツに置き換えただけのイベントではないのかしらん。
だから多様性とか言いながら、国という単位で競い合う、死に物狂いで戦い合う。
勝った選手は国旗を掲げて喜ぶし、負けた選手はなぜか国民に泣いて謝る。

 
僕らは本能的に争うこと戦うことがDNAに組み込まれているのかもしれない。
それが生きるということだと。
そういう生き物なのかもしれない。

 
だからなのか、その根源的な部分を無視して、多様性という響きのいい言葉だけを掲げているオリンピックに違和感を感じてしまう。
大坂なおみ選手が最終聖火ランナーって、誰が決めたのだろう。
単に多様性を表現したいだけだったのではないのと勘ぐってしまいます。

 
実はオリンピック憲章にはこう書かれているそうです。
「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。」
やっぱりね、単純にアスリートの祭典なんだ。
それを僕らが国同士の戦いとか、多様性と調和とか勝手に意味合いを追加しちゃっているだけ、それだから色々とつじつまが合わなくなる。

 
僕はサッカーが好きだけど、最近は日本代表には興味がなくなっちゃった。
横浜F・マリノスと日本代表が対戦したら、間違いなく前者のブラジル人を応援する。
でもね、なんかこれが正しい姿のような気がする。
こういった感覚が、これからの時代はより必要なんじゃないだろうか。

 
いつかの未来、よその星からエイリアンが攻めてきた時。
僕らは地球人として初めて多様性を認め合い、一体化できるのではないだろうか。
結局は何者かと戦うことでしか自分たちを認め合えない、そんな生き物なのかもしれません。
 

プロセスか結果か

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サッカーが好き、いやマリノスが好き。
正確に言うとマリノスのサッカーが好き。
昔のマリノスじゃない、今の攻めまくるマリノスのサッカーが好き。

 
マリノスの試合をDAZNで観戦する。
中継の合間に、スポーツ選手の名言が流れる。

 
カールルイス
「大切なのは、結果より道のり」

 
うーむ、そうなのよね。
どんなスーパースターでも、辛く険しいプロセスがあったに違いない。
そのプロセスを経たからこその結果だし、今がある、そういうことだろう。

 
でも、僕にはしっくりこない。
理由はわかっている、僕が凡人だからだ。

 
結果よりプロセス、そう言う人は心に余裕がある人だ。
もしくは結果に自信がある人、さらに言えば結果を出した人。

 
結果に自信がない人や、何の成果もあげられていない人、そんな人には結果が必要だ。
僕のことを言っている。

 
だからなのだろう。
僕は結果ばかりを望んで生きてきた。

 
勉強していても、欲しいのは良い点数、合格することが目標だから。
絵を描いていても、いい絵が描けた結果が欲しいだけ、描くプロセスはどうでもいい。
仕事をしていても、早く終わらせて遊びたい、だって仕事は好きじゃないのだもの。
観光地に行っても、訪れた経験が欲しいだけ、人に自慢できればいいのだから。

 
いったい自分は何のために生きているのか。
全くさえない人生だ。
でも、この人生が、この生き方が僕のプロセスなのかもしれない。
だって生きること、それが僕の結果なのだから。

 
生きている、そのプロセスを純粋に楽しめればいい。
あれ?おかしいね、カールルイスと同じこと言っているや。
片やスーパースター、片やただの凡人。
要は僕にとっての結果、ゴールは何かってことだ。

 
もっと鷹揚に生きたい。
それだけで、なんだか楽しくなってくるに違いない。
きっとそうに違いない・・・そう思う。
 
 

変わる、変えるってどういうことなんだろう、あーそうか「目的」を持つってことなんだ

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僕の「目的」は何なのだろうか?昨日、そんなことを思ってしまった。

 

仕事の目的やお買い物の目的を明確にする、それはわかりやすい。それでは自分自身の「目的」は何なのだろうか?

 

モテたい

偉くなりたい

お金持ちになりたい

幸せになりたい

好きなものに囲まれて好きなことして暮らしたい

 

確かのそうかもしれない。でもそれが「目的」なのかというと、そうではないような気がする。

 

モテたい、のはなぜなのか?

偉くなりたい、のはなぜなのか?

お金持ちになりたい、のはなぜなのか?

幸せになりたい、のはなぜなのか?

好きなものに囲まれて好きなことして暮らしたい、のはなぜなのか?

 

この「なぜ」、なんだと思う。

 

そんな風に考えると、よくわからない。これが偽らざる事実だ。でも同時にこうも思う、よくわからないから、そうなりたいのではないだろうか。なんか少し、しっくりきた。

 

まずはそうなってみる必要がある、そういうことなんだと思う。だから、そうなるためにはどうしたらいいか、モテるにはどうしたらいいか、偉くなるにはどうしたらいいか、お金持ちになるにはどうしたらいいか。

 

まずやってみよう、そういうことなんですね。

 

やるからには作戦が必要です、そして行動することが必要です。それが「変わる」ということ、「変える」ということなんでしょうね。

 

夢見ていてもしょうがない、願っていてもしょうがない、まずは自分でやってみなきゃ何も変わらない。

 

実は人生ってシンプルなことかもしれない、そんなこと思います。

 

目的は何だ、それがないから悩むのだ

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この週末は、なんだか知らないけれど気分が乗らない。何するにしてもやる気が起きない、そんなことってたまにある。

 

理由はたぶん、仕事で嫌なことがあったからだと思う。

 

昨日の土曜日は一日中、本を読んで過ごした。嫌なことがあったと嘆いていても仕方がない、たまには仕事関係の本でも読んでみようかな、自分なりにできることはしなくちゃ、そんなこと思い読み始める。

 

そんなこと思ったけど、休みの日に仕事関係の本を読むと、やっぱり気分はすぐれない。ますます、すぐれない、頭がいつの間にやら仕事モードになってしまう。だから途中で大好きなクルマ関連の本にチェンジした。

 

小説家の羽田圭介がクルマを購入するまでをまとめたエッセイだ、以前から気になっていたので、購入して読んでみることにした。

 

内容的にはとても面白い、というか、とても共感できることばっかりだった。

 

クルマを購入するのはとても労力がいることだ、それにディーラーの人との駆け引きというか、そんなやり取りに心身が消耗する。

 

僕はなぜだか人に気をつかってしまう質なので、クルマを選ぶ側でありながら、いつの間にやらディーラーの人に気をつかい、ご機嫌を取るようなリップサービスまでしてしまい、自分は何をやっているのだろう、そんなことよく思う。

 

羽田さんは、そこまで相手に気をつかうことはないようだが、それでもかなり気をつかう様が見て取れ共感した。

 

これって何なんだろう?

 

やっぱり、クルマが高額な品物だからかもしれない、加えて、外車ディーラーなんかは、ブランド物の意識が強いから、ディーラーの人の丁寧な姿勢の中にも上から目線な対応を感じることがよくある。

 

お前がこのクルマ買えるの?あんたにはこのクラスがお似合いじゃないの?いつの間にか話している中で、そんな雰囲気を感じ取ってしまう感じだ。

 

こちらとしては、少しでもいいクルマをお安く買いたいという心理が働くから、なぜだか、ディーラーの人に気をつかってしまう。

 

それに高額な買い物でありながら、そう何回も試乗出来ない。すぐに選ばなければならない、そんな雰囲気を醸し出されて、そこで決断しないと変な客、せこい客、そう思われてしまうような変な意識。

 

そんなこんなで心身を消耗する思いが、この本を読んで蘇ってきた。

 

羽田さんが色んなクルマに試乗して、自分に最適なクルマを導き出すエッセイなのに、そんなことばかりが気になってしまった。

 

そう思って、自分は目的が不明確なんだということに気がついた、だから、いつもプロセスのことばかりを気にして、その対応で四苦八苦してるんだと思う。

 

仕事もそう、クルマ購入する場合もそう、目的が明確であれば、そのプロセスにおける意思決定や人とのやり取りなんかで、気をつかう必要なんてサラサラない。

 

目的が曖昧だから、そのプロセスの中でどう行動をどうするかばかりが気になるんだ。

 

クルマを購入する目的、候補となるクルマ、予算を決めてから、その購入プロセスに臨めば、ディーラーの人の対応なんて気にする必要はない。

 

仕事も一緒なんだろうな。

 

あーあ、結局、仕事のことを考えてしまっている。まーしょうがない、でも「目的」はなんだ、それはすべてに共通することだと思う。やっぱ、芯を持たなきゃね、そんなこと思ったある日の週末なのでした。

 

マリノスのサッカーが好き、改めて気づくJ開幕戦

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Jリーグが開幕した。

 

開幕戦は金曜日、通称「金J」、昨年度のチャンピオンチーム川崎と、一昨年度のチャンピオンチーム我らが横浜Fマリノスとの神奈川ダービーだ。

 

いやー、待ちに待った開幕戦、もう本当楽しみでした。数日前から、ずっとワクワクしてました。

 

結果は残念ながら2-0で完敗、まあそれはどうでもいいんだけど(負け惜しみです、もちろんどうでもいいなんてことはありません)、見ていて面白い試合だった。

 

詳しいことはよくわからないのだけど、前半はマリノスが今年から採用した新布陣がまったく機能せずに、やられまくっておりました。

 

でもね、何か見ていて面白かった、なんか新しいことにチャレンジしようとしている人たちを見るのは楽しい、それがマリノスですもの尚更です。

 

それに相手が昨年のチャンピオンチーム、完成されたチームと誉れ高い川崎相手に、それを実践する志の高さが誇らしいです。

 

普通だったら、強豪相手に戦い方を対策するはずなのです、それなのに、それよりも自分たちの新しい戦い方への挑戦を優先させたのだもの素晴らしいよ、本当そう思います。

 

それでも前半やられすぎてしまいましたので、後半は選手も変えてやり方も変えてきました、一見、これまでの陣形に戻したように見えますが、やっぱり違うのです。

 

右サイドの仲川を左に、そして右には水沼を。

 

そしてこれまで左サイドに固執してきた前田を真ん中に置き、そのちょっと後ろにオナイウを配置したように見えます。

 

これがこれが、アグレッシブなマリノスのサッカーを復活させたのです、後半は明らかに川崎を圧倒していました。

 

残念ながら、点は入らなかったけど、やっぱりこれですよ、見ていて楽しいサッカー、こういうサッカーじゃなきゃ見る気にならないもん。

 

だから、マリノスのサッカーは見るけど、他のチームの試合はあまり見る気にならないんだね。その理由が昨日の試合、前後半の変遷を見ていて改めて自分自身、理解できました。

 

前半試した形に失敗したから、去年の形に戻しただけじゃん、みたいな言われ方もしているようですが、僕はそうは思いません。特に後半の姿は昨年のマリノスをスケールアップしていたように感じたからです。

 

これで前半の新しい取り組みまで形になってきたら、どんなマリノスのサッカーが見れるのかしらん。モー楽しみしかないぜ!

 

試合後、川崎の選手もイマイチ喜んでいないように私には見えました。シミッチ選手とか特にね、なんか得体の知れないものを感じたんじゃないかしらんと、勝手に思う私です(思うのは、自由だもんいいじゃんね)

 

ということで、ビバJリーグ! ビバマリノス

 

早く暖かい太陽の下、スタンドでビール飲みながら試合を見たいなー!もうすぐ春がやってくる、今年もWe Trust Bossなマリノスをみることができる幸せをかみしめたいと思いまーす。

 

メンテナンスって大事、人もクルマも一緒です

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車検からクルマが返ってきた。

 

当たり前とは言え、車検に出すクルマを見送った時は、どこかに行ってしまうような気がしたから、戻ってきてホッとしている。

 

こんなことを考えるのもアイツが家出をしてしまったからだ。まったく嫌になる。

 

整備費用約35万円、税金約8万円の総額43万円、まったくもって目が眩むようでございます。普通の人だったら、きっと買い替えを検討するのでしょうね。

 

走行距離は37000キロ、9年目のクルマにしては少ないほうなのでしょう。なので、ちゃんと手入れをすれば、まだまだしっかり乗れますよ、そんなディーラーさんの優しい声に後押しされた次第です。

 

交換した部品は、タイヤ、バッテリー、ブレーキパッド&ローター、オイルにワイパー、それと修理が必要だったABSの検知装置などでした。

 

ディーラーのお兄さん、しっかり変えておきましたよ。これだけ変えると乗り味も変わると思いますから楽しみにしてください、温かくなったら遠くまでドライブに出かけてくださいねー。

 

そんな温かいお言葉をかけていただきます。さすがヤナセです、教育が行き届いてるわー。

 

ということで、整備終了のクルマを受け取り、ディーラーを後にします

 

ん?

 

スーーーーーーー。。。

 

何やら走りが違います。素人さんでもわかります。これまで車検を受けて何かが変わった印象を受けたことはありません。それが今回は明らかに違うのです。

 

乗り味もそうだし、静かさ、そしてエンジンもなんか元気になっているような気がする。。。どういうこと?

 

タイヤなのかオイルなのか、もしかしたらブレーキなのか。それとも、余程これまで劣化していたということなのか。

 

とにかく走りが、静粛性が、レスポンスが改善されているのでございます。

 

もしかしたら43万円を支払った私の頭がそう感じさえているのかもしれません。

 

まーいいか、いずれにしてもドライブが楽しくなったことは間違いございません、もしかしたらクルマを改造する人たちっていうのは、こういう違いを感じたくて行っているのかもしれませんね。

 

僕のカラダの部品も交換できたらいいのになー、そんな妄想膨らむ一日なのでございました。

 

あらためて思う、僕らはジコチューな生き物

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以前読んだ、稲垣栄洋さんの「生き物の死にざま」をパラパラとめくる。鳥に関する話があったかな、何かそんなこと思い読み返してみた。

 

鶏の話が出ていた。

 

鶏、ここでいう鶏は食用のブロイラーのことだけど、生まれてから4~50日で出荷されるらしい。

 

元々鶏は、東南アジアの森林にいる野鶏がルーツらしく、この野鶏の寿命は10年~20年くらいらしい。

 

この野鶏が改良されたブロイラーの寿命を知る人は誰もいないのだろうけど、5年から10年くらいは生きるのではないかと書かれていた。

 

凄まじいよね。

 

普通であれば5年から10年は生きる鳥の命を僕らは一か月足らずで食料として扱ってしまう。スーパーなんかで国産「若鶏」とよく書いてあるけど、それがこれに当たるらしい。

 

こうなると、もう感情も何もあったもんじゃない。

 

人間っていうのは、そういう生き物なんだよね。牛や豚や魚だって同じように扱う、僕らは動物を食べて生きている。

 

食べるために飼う、そういう生活を大昔からしてきたはずだ。だからこそ、自分たちに食べられる動物たちに感謝して食べる、そして自分たちが生きる、そういうふうに暮らしてきた。

 

一方で、いまは平和な時代だから、自分たちで飼育したりすることもない、スーパーに行けば食材として好きなだけ買うことができる。

 

だから、今の時代で身近にいる動物と言えば、ペットということになる。

 

そしてペットを愛する人もいれば、虐待する人や捨ててしまう人なんかもいる。売られているペットがいる一方で、年間何万頭も処分されている。

 

まったく、僕らは身勝手な生き物だ、食べたり、作ったり(?)、飼ったり、育てたり、遊んだり、動物たちも大変だ。

 

だからペットが死んで悲しむというのも、僕らの身勝手な思いでしかない。僕らはみんなジコチューな生き物なんだ。

 

でもそれらも含めて生きるということなんだろうね。僕らは僕らで、僕らのために生きてくれた動物たちに感謝するしかない、それしかないんだろうね。

 

結局、僕らは僕ら自身の事しか考えていない、だからアイツの感情は僕の感情としてしか存在しない、そういうことなんだ。

 

勝手だね、そう勝手なんだ。僕らは自分勝手な生き物、だから賢いようで愚かなんだ、よくわかったよ。

 

電波が見えるメガネが欲しい、そこには恐ろしい光景が。。。

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いよいよやってまいりました花粉症の季節、私は「アレグラ」様から手が離せません。

 

以前はこの薬、お医者さんで処方してもらわないといけなかったんですよね、いまでは薬局で買えるので至極便利になりました。

 

とはいえ、最近はリモートワーク主体で外に出る機会も大幅に減っています。花粉症持ちにはありがたいことこの上なしです。

 

そんなリモートワークですが、時々回線、つまりWIFIの調子が悪くなるときがあります。結構大事な会議で回線が落ちちゃったり、音声が不明瞭になっちゃったり、ちょっと焦ります。

 

特にうちの場合、お昼時や夕方になると、調子が悪くなる時が見受けられました。たぶん、休み時間になり、回線の使用料が増えるんだろう、そんな風に思っておりました。

 

なんですが、お昼時は大概11:45くらいから調子が悪くなり、12時ごろには回復するのですよね、うーん、不思議、そう思っておりましたら、会社の子に言われました。

 

電子レンジ使ってません?

 

なんと、電子レンジがWIFIの電波に干渉するらしいのです。時間的にもぴったり、家族がお昼ご飯のために何やらを温め始める時間とドンピシャです。

 

でもなー、電子レンジとWIFIルーターは別の場所にあるのになーと不思議に思う次第です。

 

ということで改めて見てみると、台所の奥にある電子レンジ、その前には食器棚と壁、そして壁の向こう側はリビングの入り口で電話台が。。。そうです、ここにWIFIルーターが設置されているのでございます。

 

なるほどー、食器棚や壁も通り越して影響を与えていたわけなのですね。電子レンジ恐るべし。

 

どうやら、電子レンジは2.4GHz帯の電磁波を発生させる機械らしく、同じ帯域で使っているWIFIと干渉してしまうらしいのです。

 

ということで、WIFIルーターを5GHz帯に変更した次第でございます。

 

いやー知らないことって多いな、それにしてもこんだけ様々な電波(?)やら何やらが飛び交っていて、そこには大容量の様々なデータが流通していて、僕らの生活は大丈夫なんでしょうか。

 

いちど電波が見えるメガネでもあれば見てみたいもんです。そこには恐ろしい光景が展開されているかもしれないね。

 

事実だから言葉で取り繕う、それは隠ぺいと一緒

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東京五輪パラリンピック組織委員会、森さんの不適切発言から、辞任、そして橋本新会長の選出に至るまでの一連の流れ、まったくようやるわ、そんな感想しか思い浮かびません。

 

女性蔑視発言、男女差別そんな問題に起因したことから、政府やらIOCやら、オリンピックスポンサー各社は対応に必死です。

 

特にスポンサー各社のコメント合戦には笑います、もう他社がコメントするならうちもコメントしなきゃと言った感じの大作文大会。ダイバーシティインクルージョンを積極的に推進します、そんな内容であふれかえっていました。

 

各社ともどんだけ女性の役員や管理職を登用しているのでしょうね、一緒に公開すればいいのにと思います。

 

こういった関係者の発言や対応を見ると、女性蔑視や男女差別というのは現代社会に間違いなく存在してるということがよくわかります。それを認めているからこそ、自分たちはそんなことしてませんという発言をしなければいけない、そんな感じです。

 

自民党の竹下さんが「橋本さんはああいう性格です。しかもスケート界では男みたいな性格で、ハグなんてのは当たり前の世界です。それをセクハラだと言われたら、これはかわいそうだなと…」という発言も突っ込みどころ満載で、大変話題になっていました。

 

それに対してテレビのニュースなんかでは、この「男みたいな性格」というところを、今時であれば「アクティブな方」とか「エネルギッシュな方」に言い換えたほうがいいなんて言ってましたけど、これってある種の隠蔽ですよね。

 

本当はそう思っていて、意味合いもよくわかるんだけど、そう言ってはいけない、だからこういう表現に変える、そんな小手先で取り繕う風潮が社会に蔓延すると嫌だなー、ホントそう思います。

 

そもそも、後任が女性であるべきなんて、それこそ男女差別も甚だしいと思います。

 

実力のある人がしかるべき立場に立つべきであって、男性でも女性でもどっちでもいいわけです。それなのに女性から選ぶなんて、かえって女性をバカにしているような気がします。

 

なんかねー、そもそも男性と女性は体の作りが違うわけですから、その辺の「違い」もわきまえた上で、機会の平等を徹底していくべきなんではないかと思います。

 

そうじゃないと、そもそも男女で競技種目を分けているのもおかしい、差別だ、そんな話になってしまいますからね。

 

これまでは、戦争など戦いの中でかよわき女性を男性が守る、そういう世の中だったのでしょう。平和じゃなかったということです、この点は忘れちゃいけないよね。

 

その上で、今は平和な世の中なんだから、機会均等にみんなが、差別なくやりたいことがやれる社会、そういう認識を持つことが大事なんではないかと思います。

 

クルマ自体に感情はなくても、僕ら自身の感情と一体化するのだ

 

アイツが家出をしてしまったその日の午後、車検に出すためディーラーの人がクルマを取りに来た。

 

色々考えたのだけど、今のクルマを4回目の車検に出すことにした、タイヤやらバッテーリーやらを各種交換するため、総額40万コースだ。

 

この機にクルマを買い替えようか、そんなことも思ったけど、他にそれほど欲しい車があるわけでもないし、何より今のクルマを気に入っている。

 

もちろんお財布の事情もあるわけだけど、それでも車検にこんな費用を払うならみたいなことも考える。でも、クルマ自体を替えるとなると支払うお金の桁が変わってしまう。

 

これまで、あまり深く考えずにクルマを買い替えてきたけど、今後のサラリーマン生活なども考えると、今さらローンはしたくない、だから簡単に買い替えるという選択肢には至らない。

 

うーん、僕もオッサンになったのだな。欲を言えば、あまりそこら辺を考えずに好きなクルマに乗れる身分になりたいけど、しかたがない。

 

頑張って好きなクルマに乗れるよう自分で頑張るしかない、夢見て願っているだけでは、何も変わらないし実現できないということに、先日、気づいたばかりだ。

 

やってきたディーラーの人に鍵を渡し、僕は自分のクルマが駐車場を出ていくのを見送った。

 

なんか変な感じだ、さっき、アイツを見送ったばかりだもの、僕のクルマがもう帰ってこないのではないか、そんなことを思ってしまった。

 

以前、クルマを買い替えた時に感じた思いが蘇ってくる。

 

クルマは単なる機械だ、だけどそれに乗っていたのは僕ら生身の人間だ、だから僕らの思いや感情はクルマと一緒にある。つまり僕らの感情はクルマと一体化している。

 

クルマ自体に感情はなくても、僕ら自身の感情と一体化するのだ。

 

家出してしまったアイツも、最後に出ていくときは感情もなく機械と同じような状態だったけど、僕らの感情はアイツと一体化していた。

 

そうなんだな、僕らは身勝手な生き物、相手が生きていようがいまいが、自分に取り込んで自分の感情にしてしまう。

 

そう思うと、僕も誰かに取り込まれ、その誰かの感情と一体化されているのかな、そんなこと思う。

 

アイツが家にいた時、アイツの感情に僕はどう一体化されていたのだろうか。

 

何だか知らないけど、知りたくなる。僕らはホント、面倒くさい生き物、そう思う。

 

いつもの場所に、いつものものがある幸せ

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いつもの場所に、いつものものがない。

 

テレビのリモコンやらスマホやらメガネやら、あれ?と思い探すと、ソファーの隙間にあったり、違う場所に置き忘れていたり、面倒だなーと思いながら、いつもの場所に置き直す。

 

同じように居間の傍らには、いつものように鳥かごがある。

 

いつものように温かい毛布が掛けられている。

 

あれ?姿が見えないな、そう思い、ここに居たいつものアイツが、もうここには居ないことを思い出す。

 

不思議なもんだ、あいつがいなくなってから、何回、こんなことを繰り返しているのだろう。

 

もうここには居ないことを思い出しては、なんだか不思議な気持ちになる。

 

多分生まれてこの方、ずっとかごの中の生活だったのだろう、それが、かごの中に居ないということは、一体どういうことか。

 

念願かなって、外の世界に飛び立ったのだろうか。アイツは外の世界でも逞しく生きていけるのだろうか、すぐに戻ってくるのではないだろうか。

 

隣の芝生は良く見えるっていうけどな、アイツなりに思うところがあって家出してしまった、そんなところかもしれない。

 

アイツは動かなくなると、フリルのついた真っ白いハンカチにくるまれ、これまたきれいな箱に入れられた。

 

箱の周りには花が飾られ、餌と水、いつも遊んでいたおもちゃがその脇に飾られている。

 

近所の公園に埋めに行くのかと思ったら、専門の業者が引き取りに来た。作業着を着た普通の青年だった。

 

箱の中に花を詰め、リボンで蓋を閉じる。バレンタインかなんかのプレゼントのようだ。

 

作業着を着た青年にその箱を渡すと、青年は大切そうにその箱を胸の前に持ち、そのまま行ってしまった。

 

僕ら家族はその様を見送り、僕はちょっとだけ手を振ってみた。

 

これがアイツが初めて家を出た瞬間だった。ようやく外の世界に出れたのだ、そもそも出たかったのかどうかすらわからないけど。

 

こんな感じでアイツは家出をしてしまい、家の中にはアイツが使っていたものだけが所在なさげにそのまま残っている。

 

この違和感はいつまで続くのだろうか。たぶんそのうち、忘れてしまうんだろう、それまでの間のことだ。

 

いつもの場所に、いつものものがある。それって、幸せなことなんだ、そんなことを生まれて初めて知った。

 

ペットなんて嫌い

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ペットは嫌いだ。

 

よくテレビで犬や猫を溺愛している人を見るけど、不思議でしょうがない。基本、土足だし、ウンチしてもおしっこしてもそのまま部屋の中を歩き回るんだから、衛生的にもどうなのかと思う。

 

それに家の中にペットがいると色々と気を使う、夜中に電気をつける時もそうだし、大きな音出さないようにとか、知らないうちに気を使わなきゃならないのが面倒だ。

 

せっかくの自分の家なのに、好き勝手に過ごしたいじゃないのよさ、いっつもそんなことを思う。

 

それに何だかんだ言って、家族からチヤホヤされて、僕なんかホットかれて。。。あれ?それは僕の問題か、いずれにしてもペットを飼うなんて面倒くさいだけだと思う。

 

といっても、うちにイヌやネコがいるわけではなく、いるのは鳥かごに入った小さなインコだけだ。

 

それでも、たいそう大事にされており、ホント僕なんかより大切にされていること間違いなしで、まったく幸せな奴だ。

 

以前、このブログでもそんなことを書いた。

 

blue-jk.hatenablog.com

 

そんなインコ、名前はスーというのだけど、3週間くらい前から調子が悪く、僕は家人に言われ動物病院に連れて行った(これまでも何回も行っている、そのたびに一回一万円くらい払う)。

 

薬をもらうも、だんだん餌も食べなくなり、痩せていき、まぶた(?)も重たそうで、ここ数日は昼間でも寝ていることが多かった。

 

鳥かごの中にある、ヒーター(ヒーターですよ、専用のヒーター)に寄り掛かるように寝ていた。鳥かごには毛布も何枚もかけられて、まるでお大名のようだ。

 

一昨日には、ようやく餌を食べるようになり、娘が食べるポテトチップスをついばんだりして、ようやくいつもの姿に戻った。

 

なんだ、元気になるんじゃないか、そう思ったら、次の日の朝、鳥かごの中で死んでいた。

 

動物も人間も一緒なんだ、亡くなる直前に一瞬だけ元気になる、不思議なもの。

 

うちの母もそうだった、そんなことを思った。そういえば、二重になった目元も、なんとなく亡くなる前の母に似ていた。なんかそう感じた。

 

もう家人や娘は泣きじゃくるし、あー、これだからペットは嫌なんだ、本当そう思う。ペットを飼うとき、最初に約束したはずだ、いつか僕らより先に死んじゃうんだからねって。

 

それでも、動かなくなったスーを見ると、それなりに色んなことを思い起こす。

 

鳥かごから出ると真っ先に僕のところに飛んできたこと
僕の頭の上にとまり、僕の耳や首筋をかじって痛かったこと
ピッと鳴く声に合わせて僕が口笛を鳴らすと、延々そのやり取りが続くこと
お決まりのドラマの主題歌がかかると、勢いよく鳴き始めること
たまに鳥かごを見ると、自分をかごから出せと柵を開けようとしたこと
酔っ払って、お前はイイよなとか、ひとりスーを見て呟いたこと

 

うーん、だからペットは嫌なんだよ。まったく。

 

スーは僕の口笛にどんな思いで反応していたんだろうか
スーの目にはうちの家族はどんなふうに見えていたんだろうか
スーはこの家で暮らすことをどう思っていたんだろうか
スーは何のために生まれてきたんだろうか
スーは何を考え最後の時を迎えたんだろうか
スーの人生(鳥生?)は幸せだったのだろうか

 

夜中起きて水を飲みに居間に行く、音をたてないように電気をつけないようにしている自分に気づき、傍らにあるからっぽの鳥かごに気づく。

 

あー、だから言ったじゃないか、ペットなんか嫌だって。本当にそう思う、ペットなんか大っ嫌いだよ。

 

もー、困ったもんだ。いつの間に僕らをこんなに幸せにしてくれちゃったんだよ、もー。君も少しは幸せだったのかな、そうであったら嬉しいな。

 

スーさん、さようなら。ペットなんてホント嫌いだよ。

 

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「受け入れる」ことが、次に向かうために必要なこと

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僕は「受け入れる」ことができているのだろうか。最近、そんなことをよく思う。

 

こうありたい自分、他人からこう思われたい、こう見られたい、そんなことをよく思うけど、そんな自分でいるかというと、必ずしもそんなことはない。

 

そんな自分に気づくとき、誰にもあると思う。

 

その時に大事なこと、それは「受け入れる」ことができているか、それとも「誤魔化」しているか、だと思う。

 

誰にでもプライドはあるし、自分が自分で望んだ自分でないことがわかることはツライし悲しいことだ。それでもその現実を受けとめて「受け入れる」ことができる人は強い。

 

僕はと言えば、「誤魔化」していることが多い、そんなことに最近気がついた。

 

「誤魔化」すとは、他人を誤魔化すということではない、自分自身を誤魔化すということだ。

 

たまたま運が悪かったんだ、やればできるんだ、アイツだって同じようなもんじゃないか、僕はこんなもんじゃない、やろうと思えばいつでもできる、理解しないアイツが悪い。。。そんな感じだ。

 

そんな風に自分を「誤魔化」すと、誤魔化す僕になってしまう。そのままずっと、その時の僕のままだ。

 

僕は「受け入れ」なきゃいけない、自分の至らなさに自分で納得しなければならない。

 

「受け入れる」とは次に向かうことだ。

 

受け入れなければ、次に向かえない。同じ場所に居続けなければならない。そして誰かが助けに来てくれるのを待ち続けなければならない。

 

「願う」というのはそういうことだ。

 

そんなことに今ごろ気づいた。

 

僕は「受け入れる」、自分の不甲斐なさ、自分の至らなさを「受け入れる」。そして次に向かう、次に向かって歩き出す。それが「新しい楽しみを見つけ続ける日々」だと思うから。

 

あーあ、今ごろこんなことに気づくオッサンです、まーいーか、これからだよね人生は、成長するって難しい、でもこんなオッサンでも成長できるってことだ、がんばろー。

 

楽しむってことは、ただ楽しむだけでいいんだ、そんなことを知る

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先日の千葉一周の旅、実は一泊してまいりました。

 

世の中は緊急事態宣言中、STAYHOMEが求められ、Gotoも停止中ではありますが、何度も言います通り、クルマで一人ドライブは至極安全な旅だと思っております。

 

お昼はコンビニでおにぎり、夜もビジネスホテル近くで買い出して、ひとり寂しく部屋食した次第です。

 

二日目は銚子に向かいました、犬吠埼ですね。

 

前回、千葉の景色が北海道に似てるって話をしたんですが、この犬吠埼にある灯台、ここは室蘭にある地球岬灯台に感じが良く似てるんですよねー。

 

まあ、崖の上にある灯台はみんな、こんなもんかもしれませんが、それにしても雰囲気が良く似ています。

 

この犬吠埼に向かう途中ですが、九十九里の海岸によりました。たまたま、道を入った先にあった海岸で吉崎という場所だったんですが、他にもクルマで来ている人たちがちらほら。

 

海をみると、サーフィンやっている人たちがそれなりにいたんですね。

 

なんかいいなー。

 

実はサーフィン、憧れてます。一度やってみたい、そんなことを今さらながら思ってるオッサンなんです。

 

しばらく見てたんですが、ここでサーフィンしてる人たちなんともいい感じ、湘南海岸なんかで見る、「密」な感じはまったくなく、みなさん波と戯れている、そんな感じでチョー楽しそうです。

 

しばらく見てると、おっさんが三人くらいクルマでやってきて同じように海を見ています。

 

地元の人かな、そう思っていると、そのオッサンたちクルマに戻り、ウエットスーツに着替え始めるではありませんか。

 

どう見てもただのオッサン、姿かたちもお洒落でも何でもない、ただのオッサンなんです。クルマだって多摩ナンバーの軽自動車でした。

 

湘南で見るサーファーは、オッサンであっても白髪交じりの長髪をポニーテールにして、こじゃれた外車のワゴンに乗るお洒落オッサンばかりだったのでビックリです。

 

うーん、楽しむっていうのはこういうことなのかもしれないな。

 

オッサン三人組は、楽しそうに海に向かっていきました。単に僕と同じように通りすがりに海を見に来ただけかと思っていましたが、まさかプレイヤーとは。

 

しかしね、僕なんかすべて形から入る方だし、他人の目ばかり気にしちゃうんだけど、楽しむってことは自分が楽しむってことなんだよな、そんな当たり前のことを知る九十九里の海なのでございました。

 

人生はべんきょーと挑戦だ。いつかサーフイン、やってみたいなー、その時は出来ればお洒落サーファーがいいなー、まったく学びのない私でした。

 

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