「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

クルマ自体に感情はなくても、僕ら自身の感情と一体化するのだ

 

アイツが家出をしてしまったその日の午後、車検に出すためディーラーの人がクルマを取りに来た。

 

色々考えたのだけど、今のクルマを4回目の車検に出すことにした、タイヤやらバッテーリーやらを各種交換するため、総額40万コースだ。

 

この機にクルマを買い替えようか、そんなことも思ったけど、他にそれほど欲しい車があるわけでもないし、何より今のクルマを気に入っている。

 

もちろんお財布の事情もあるわけだけど、それでも車検にこんな費用を払うならみたいなことも考える。でも、クルマ自体を替えるとなると支払うお金の桁が変わってしまう。

 

これまで、あまり深く考えずにクルマを買い替えてきたけど、今後のサラリーマン生活なども考えると、今さらローンはしたくない、だから簡単に買い替えるという選択肢には至らない。

 

うーん、僕もオッサンになったのだな。欲を言えば、あまりそこら辺を考えずに好きなクルマに乗れる身分になりたいけど、しかたがない。

 

頑張って好きなクルマに乗れるよう自分で頑張るしかない、夢見て願っているだけでは、何も変わらないし実現できないということに、先日、気づいたばかりだ。

 

やってきたディーラーの人に鍵を渡し、僕は自分のクルマが駐車場を出ていくのを見送った。

 

なんか変な感じだ、さっき、アイツを見送ったばかりだもの、僕のクルマがもう帰ってこないのではないか、そんなことを思ってしまった。

 

以前、クルマを買い替えた時に感じた思いが蘇ってくる。

 

クルマは単なる機械だ、だけどそれに乗っていたのは僕ら生身の人間だ、だから僕らの思いや感情はクルマと一緒にある。つまり僕らの感情はクルマと一体化している。

 

クルマ自体に感情はなくても、僕ら自身の感情と一体化するのだ。

 

家出してしまったアイツも、最後に出ていくときは感情もなく機械と同じような状態だったけど、僕らの感情はアイツと一体化していた。

 

そうなんだな、僕らは身勝手な生き物、相手が生きていようがいまいが、自分に取り込んで自分の感情にしてしまう。

 

そう思うと、僕も誰かに取り込まれ、その誰かの感情と一体化されているのかな、そんなこと思う。

 

アイツが家にいた時、アイツの感情に僕はどう一体化されていたのだろうか。

 

何だか知らないけど、知りたくなる。僕らはホント、面倒くさい生き物、そう思う。