「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

戦うことは本能なのか?

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オリンピック、始まる前は不祥事てんこ盛りでエライ騒ぎ。
でも、やっぱり始まってしまえば大盛り上がり。
つくづく僕らはお調子者の単純な生き物だと思います。

 
このオリンピック、当然ながら国同士の競い合い、戦いの場。
スポーツマンシップに則ってとはいいますが、勝つか負けるかの真剣勝負。
自分の生まれた国を背負って戦うのがオリンピック。

 
ここで思うわけです、なぜ僕らは生まれた国を背負って戦うのでしょう?
そりゃ、自分の国には愛着もあるし、そこで暮らす人たちとの一体感もある。
それが文化だし、もしかしたら、もっと根源的な生物学的なルーツによるものなのかもしれない。

 
でも今回「多様性と調和」が大会理念として掲げられている。
男女はもちろん、トランスジェンダーなどLGBTの方も含めて互いに相手を認め合う大会。
世の中まさしくダイバーシティってやつ。

 
でも、ダイバーシティって人種、性別、年齢、信仰などにこだわらずに多様な人材が活躍できる社会ってこと。
だったら生まれた国に分かれて競い合うオリンピックって・・・、なんてことも思う。

 
野球だって、メジャーリーグのあの球団でプレイしたい、そんな理由で海を渡るのが当たり前の現在。
自分が活躍したい場所、プレイしたいチームで、そこに集まった多様な人材と競い合う方が何だかしっくりくる。
これこそダイバーシティなんじゃないだろうか。

 
結局オリンピックって、戦争をスポーツに置き換えただけのイベントではないのかしらん。
だから多様性とか言いながら、国という単位で競い合う、死に物狂いで戦い合う。
勝った選手は国旗を掲げて喜ぶし、負けた選手はなぜか国民に泣いて謝る。

 
僕らは本能的に争うこと戦うことがDNAに組み込まれているのかもしれない。
それが生きるということだと。
そういう生き物なのかもしれない。

 
だからなのか、その根源的な部分を無視して、多様性という響きのいい言葉だけを掲げているオリンピックに違和感を感じてしまう。
大坂なおみ選手が最終聖火ランナーって、誰が決めたのだろう。
単に多様性を表現したいだけだったのではないのと勘ぐってしまいます。

 
実はオリンピック憲章にはこう書かれているそうです。
「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。」
やっぱりね、単純にアスリートの祭典なんだ。
それを僕らが国同士の戦いとか、多様性と調和とか勝手に意味合いを追加しちゃっているだけ、それだから色々とつじつまが合わなくなる。

 
僕はサッカーが好きだけど、最近は日本代表には興味がなくなっちゃった。
横浜F・マリノスと日本代表が対戦したら、間違いなく前者のブラジル人を応援する。
でもね、なんかこれが正しい姿のような気がする。
こういった感覚が、これからの時代はより必要なんじゃないだろうか。

 
いつかの未来、よその星からエイリアンが攻めてきた時。
僕らは地球人として初めて多様性を認め合い、一体化できるのではないだろうか。
結局は何者かと戦うことでしか自分たちを認め合えない、そんな生き物なのかもしれません。