「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

考えることを放棄しちゃいけない


最近は会社に行くのもすっかり私服。

三年前に今時の施策としてオフィスカジュアルが導入された。
若い子は嬉しそうにおしゃれ、オッサンは変わらずスーツ。
しばらくはそんな感じ。


それでも時折、私服でやって来るオッサンの痛い姿が印象に残っている。
どこでその服売ってるの?そんな感じ。
役員からしてそんな感じだ。


僕はというと、この際だからとキレイ目なジャケパン私服を買い込んだ。
なんかいい感じ、自分が違う自分になったようで気持ちがいい。
(簡単な自分)


なんといってもスーツと比べて動きやすいし、仕事していても楽ちん。
夏はポロシャツで涼しいし、冬はセーターで暖かい。
そもそも、夏も冬もスーツっておかしくない?
そんなことに今さら気づく。


こんなだから、ここ三年スーツを着ていない。
客先行くのもジャケパン、最近は来客があっても上着すら着ないこともある。


だからといって、非常識、なんて怒られることも無い。
言わないだけでそう思われている、なんてこともない(と思う)。
だって、相手に不快感を与えるような恰好をしているわけではないのだもの。


たぶん僕らが思っている以上に、相手は僕らに関心がない。
関心があるのは自分のことだけだ。
スーツ着てちゃんとしている自分が大事なだけ、
それで安心できるだけ。


スーツを着なくなってわかったことがある。
オシャレって難しい、そんな自然の摂理を今ごろ知った。


普段着だったら、それこそスエットでも短パンでもいい。
もちろん仕事だもの、そういうわけにはいかない。


相手に不快感を与えない、社会人として常識ある私服。
意外とこれが難しい。


さらに50代としての適切な格好も模索しなければならない。
若すぎず、オッサンすぎず、それ相応の上品さも醸し出したい。


スーツであれば何も考えなくていい。
10万のものでも1万のものでもスーツはスーツ。
どちらを選ぶかは着る人の価値観の問題。


でも、これって創造力の放棄だと思う。
スーツ着てれば、あとはなんだっていい、簡単すぎる。
だから日本企業が生み出す製品にはセンスがない。


性能は良くても価格は安くても、マーケティングが優れていても。。。
センスがない。
これって致命的だと思う。


最初はオフィスカジュアルなんて、若い子に媚びた施策だと思っていた。
でも違う、センスを育むための施策だと思う。
これから企業が生き延びていくためには、
生み出す製品やサービスにセンスが必要となる。


だから、これは会社のため、仕事のための取り組みではない。
自分のための取り組みなのだ。


センスある自分でいるための修行。
何ごとも楽しちゃいけない。


楽(らく)しないで楽(たの)しむことが必要。
嬉々として取り組むのが良い。


そう思って今日も悩む、何着て行こうか。。。
50代からの修行、そう思って楽しむ。。うーん、難しい。

いつもの一日をいつもの平凡な一日にしているのは自分だった


久しぶりのゴールデンウイークらしいGW、日本中がそんな感じだ。

テレビでは混雑する観光地や渋滞する道路が映し出されている。
我が家はどこにも行く予定がない。


そんなインドアの我が家をアウトドアな弟家族が誘ってくれた。
近所の公園でのピクニック、徒歩で5分ほどの場所にある公園。


とはいってもアウトドアな弟家族は本格的なキャンプグッズを持ち込む。
コダワリのイスやテーブルにタープまで、お昼寝する場所まである。


この公園、火は使えないのでお昼はサブウエイのサンドイッチ。
いそいそと持ち込んだお酒をここぞとばかりに飲む。


ハートランドのビール、スパークリングワインに日本酒。
最高だ。


外で飲み食べることがこんなに美味しいとは。
美味しいものは、ただ美味しいだけじゃなくて食べる環境によってより美味しくなるのだ。
先日自分で書いたことなのに改めて実感する。


さらに弟家族が持ち込んだのがモルックというゲーム。
フィンランドの伝統ゲームらしい。
1から13まで番号が書かれた木を並べ、丸木を投げて倒すゲーム。


これが面白い。
テレビでは見たことがあったけど、やっぱ何事もやってみるもんだ。


なにより力も敏捷性も不要、丸木が並べた木に当たった音が気持ちいい。
きっと高齢者でも楽しめる、ゲートボールより流行るのではないだろうか。


そんなことんなで、食べて飲んでまったり遊んだ一日。
大満足なゴールデンウイークだった、持つべきは兄弟、ありがとうございます。


それにしても徒歩5分の近場でもこんなに楽しむことができるのだな。
なにも何時間もかけてキャンプ場に行く必要もない。


年頃の娘なんか公園のトイレが嫌で、その度に家まで帰っていた。
でもこんなことができるのもお気楽でいい、お酒もすぐに補充できる。


気持ちよく疲れ家に帰りお風呂に入る。
いつものお風呂、いつものシャワー、なのになぜか気持ちいい。
熱いお湯が体にしみわたる。


なるほどなあ、いつも何気なく浴びてるシャワーだけど、こんなに違うんだ。
いつもの毎日をいつもの平凡な毎日にしているのは自分。
ちょっと反省だ、そんなことを思う一日。


何処かの誰かが言ったっけ、僕らは旅に出なければならない。
そこまで大げさじゃなくても、心がけ次第で何でもできる。
そういうことだと思う。

 

コメダ珈琲で思う「無個性」の「個性」化


コメダ珈琲に行った、初コメダ

GW、家族で出かける行事もない。
一度行って見たかったコメダ珈琲に行こうと誘ってみた。
(しょぼい父親で申し訳ない)


到着したのは11:30、既に満員だ。
愛層のいい店員さんがてきぱきと働いている。


10分ほど待って席へ案内される。
これがコメダ珈琲か、喫茶店とファミレスの中間みたいな感じ。

メニューを開くと思ったより少ない。
もっと色んなメニューがあると思っていた。


家族はサンドイッチ、僕はホットドックとコーヒーを頼む。
運ばれてきたコーヒーはいたって普通、袋に入った豆菓子つき。


なんでこのお店が全国に広まっているのだろう。
特段値段が安いわけでも、食事が美味しいわけでもない。


横の壁に「KOMEDA COMES TRUE.」と書かれたシールが貼ってある。
ドリカム?何の意味だろう。


スマホで調べるとコメダ珈琲が実現していきたいことを表しているらしい。
くつろげる場所であり続ける、みたいなことが書かれている。


よく考えると、最近は喫茶店らしい喫茶店って少ない。
スタバやタリーズ、もしくはファミレス。
またはデパートなんかに入っている高級喫茶。


昔ながらのモーニングが出てくるような喫茶店って以外にない。
それのフランチャイズ、要はファミレス版がコメダ珈琲なのか。


なんか味気ないけど、誰もが気軽に入れるお店。
普通であること、それを差別化要素にしちゃうんだから、商売上手。


こうなると、一芸に秀でたとんがった店の方が痛い店に見える。
ああ頑張ってるね、こだわってるんだね、もっと普通でいいのに、そんな感じ。


世の中、個性が一巡するとこんな感じになるのだろうか。
無個性の個性化。


でも、世の中そんなお店ばかりだと寂しい。
無個性のように見えて実は個性がある、そんなお店がカッコイイと思う。


人も一緒。
フツーに見えて、一本筋の通った人。


そういう人に限って、着ている服も高品質なものだったりする。
要はそんな服が似合う人。


逆に見かけは突飛だけど、よく見ると、まわりの人も同じような恰好をしている。
着ているのはワンシーズン限りのファストファッション


個性を表現しているのか、個性を装っている(装わされている)のか。
誰かのお仕着せで個性を装うなんてごめんだよね。


自分を知って、自分を正しく表現したい。
似合う似合わないというのは、自分を知っているか否かと一緒だから。


人もお店も一緒かもしれない。
コメダもいいけど、そんなお店も応援したい。


コメダ珈琲でくつろぎながらそんなことを思う。
ああー、商売上手だなあ。

 

運が良いとか悪いとか、決めてるのは自分自身


最近、ドライブ中によくラジオを聞いている。

以前はお気に入りの曲を流し続けていたけど、意外と疲れる。
だからラジオ、今さらながらだけど意外といい感じ。


かつてメディアといえばテレビに新聞、そしてラジオ。
今はそれに加えてYoutubeやらtwitterやら百花繚乱。
遠くの国の出来事だって、瞬時に伝わる世の中。


テレビはまだしも、新聞やラジオなんて衰退の一途だと思っていた。
情報の入手手段として捉えればその通りだと思う。


今は情報は自分から取りに行く時代、そのツールが各種のSNS
情報を待っていたら生きていけない。大げさじゃなくそう思う。


でもラジオの魅力は違うところにあった。
それは近くで誰かがおしゃべりしている、その存在感。


仕事しながら、勉強しながら。
その隣で誰かがしゃべっていることの安心感。
気になれば、聞き耳立てて聞いてみる。


ひとりじゃない、寂しくない。
そんな気にさせてくれるラジオ、意外に偉大なツールかもしれない。


先日、そんなラジオを聴いていて、気になった話。
リスナーさんからの質問にラジオパーソナリティさんが答える。


どんな男性と付き合えばいいですか?
ラジオパーソナリティさんはこう言う。
じゃんけんに強い男。


世の中うまくいくかいかないかは運しだい。
だから運をつかめる男を選ぶべきだということらしい。


そのお方、自分はじゃんけん強いと言ってその場でお相手と五番勝負。
見事逆転勝ち、秋元康さんです。


ふーん。。。確かにそうかもね。
でもなんか腑に落ちない、何が腑に落ちないのか考えてみた。


それは秋元さんが成功された人だからだと思う。
妬みじゃなくてそう思う。


有名人などのスペシャルな人は自分がスペシャルだと言わない。
決して言わない。


彼らはスペシャルな上に、運も掴むことができた人たち。
単に運が良い人たちではない、本当はそう言って欲しい。


本当は運だけじゃない。
そうでありながら、そう思わせないように伝える、さすがの秋元康さんだと思う。


結局、運が良いとか悪いとか、すべて自分が決めること。
ぜんぶ自分次第。


だから、まずはすべきことをする、これにつきる。
そして自分は運が良いな、そう思う。
だって自分の勝手だもの。


こんなことをひとり思い考えられるのもラジオのいいところ。
ちなみに車の中だと、ラジオに向かってなんか言うこともできる。


そんなことないでしょ、僕はこう思う。
あー、その通りだね、いいね。
人には見せられないひとりごと。


僕らの周りにはコミュニケーションが落っこちてる。
感じるか感じないかは自分次第、それが運なんじゃないだろうか。


そんなことを思った。

 

美味しいものは、美味しく食べることで美味しくなる


水戸一泊旅行の二日目、この旅には目的があった。

鹿島スタジアム、一度行って見たいと思っていた。
ごひいきチームの横浜Fマリノス、初めてのアウェー観戦。


試合開始は15時、それまで何をしようか。
特に当てもなかったので、道の駅かつらという場所に向かった。


以前、訪れたことがある川沿いの道の駅。
河原でキャンプをする人や、水遊びをする子供たち。
田舎ならでは(失礼)の牧歌的な風景が心地良い。


この場所にはまだ桜が咲いていた。
散り始め、風に吹かれて桜の花びらが舞っている。


まだ朝の9時半、しばらくボーっと舞い散る桜の花びらを見る。
風が吹くと花びらがハラハラと僕を包み込む。
何やら特別な光景、このまま何処かに連れてかれちゃいそう(乙女)。


道の駅にサンドイッチとコーヒを買いに行く。
サンドイッチにはなぜか唐揚げが2つ付いている。
コーヒーはサザコーヒーといった、こちらでは有名なようだ。


さっきの場所に戻り、コーヒーを飲む。
旨い。。。薄い感じなのに味が濃い、酸味もあり僕の好きな味。
思わずお代りをしてしまう。
サンドイッチも美味しかった、もちろん唐揚げも。


このサザコーヒー、茨城発祥のコーヒー屋さんらしい。
後で調べると二子玉川にも店がある、後日、行ってみた。
その場で飲むこともできるのだが、豆の販売がメインらしい。


一杯どりという、ドリップタイプのものも売っている。
見ると値段がおかしい、なんと二万円もするものがあった。
いっぱいじゃなくて一杯、コーヒー一杯分。
うちは豆をオークションでも仕入れてるんです、店のお兄さんが言っていた。


何ごとにもこだわりの世界はあるものだ。
道の駅で飲んだサザコーヒーは一杯200円、何が違うのだろう。


桜の花びらが舞い散る中で飲むコーヒーは最高だった。
一杯二万円のコーヒーだったら、また違う世界が見えるのだろうか。
そうかもしれない。


でも、食事はそれを食す環境やその時の自分の感情に大きく左右される。
美味しいものは、美味しく食べることで美味しくなる、そう思う。


美味しかった食べ物の記憶。
その食べ物が単に美味しかっただけではなかったことを思い出す。


あの名店の何が美味しい、これが美味しい。
あそこで食べた、ここでも食べた。
それだけじゃない、もっと大事にしなきゃいけないことがある。


最高の場所で最高の時間、
そこで飲む200円のサザコーヒーが僕を最高の気持ちにさせてくれる。


気がつくと時計の針が12時半をさしている。
急がないと試合開始に間に合わない。


偕楽園やおさかな市場、どこに行こうか考えていたが、それどころじゃない。
でも、こんな旅もあっていい、気持ちのいい時間。
焦る必要なんて何にもない。


初めて訪れた鹿島スタジアムは最高だった。
マリノスは3-0で勝利、鹿島で勝つのは10年ぶりらしい。


夜遅く家に帰る、慌ただしい土日、それでも何やら充実感。
何ごともやってみるもんだ、そう思う、疲れたー。

 

ネモフィラを見て思う、僕はどんな僕になれるのだろう

千葉の無料写真


何もしなきゃ何も変わらない。

最近そんなことをよく思う。
まるで思春期を迎えた中学生、いわゆる中二病
そう僕は第二の青春を迎えたのかもしれない(前向き)。


いつも気がつくとぐーたらな休日を過ごしている。
ビールを飲む時間がやってくるのをひたすら待つ毎日。


それではいけない。
僕は出かけなければいけない、何かに出会わなければいけない。


そう思い、先日、水戸への一泊旅行に出かけた。
もちろんの助の一人旅、同行するのは僕の愛車。
大好きなドライブ旅行。


まずは行ってみたかった「ひたち海浜公園」に向かう。
ネモフィラってやつだ、僕が行ったときは三分咲き。
それでも迫力のある景観だった、丘の上からは海が見える。


近くにあったベンチに座る。
特段することも無いから、ボーっと座ってネモフィラちゃんを見る。
近くで見るといたって普通の花。


これがあたり一面に広がることで景色が変わる、この花の価値が変わる。
面白いものだ。


人間も一緒かもしれない。
ひとり一人は平凡かもしれないけど、そんなみんなが集まると何かが起きる。
会社なんかがそうなのだろう。みんなで働き、みんなで価値を生み出す。


中には、ひとりで輝きを放つ人もいる。
そんな人は、ミュージシャンになったり、スポーツ選手になったりするのだろう。
花で言えばなんだろう、ひまわりや桜の木みたいなものだろうか。


僕はどんな花なのだろう、そしてどんな花になりたいのだろう。
そんなことを考えてみる。


見て美しいだけの花じゃない方がいいな。
かといって食べられたり、何かの原料になったり、そういうことじゃない。
何かを感じてもらえる花がいい。


ふと思ったのは、れんげの花。
あの土手なんかに咲いていて、花飾りなんかにするやつ。


きっとみんな、誰かと一緒にれんげの花を摘んだことがあるはず。
その時の気持ち、思い出してみてほしい。
そんな思いを感じさせる花になれたら最高だ。


人間も同じかもしれない。
僕の人生、誰かに何かを感じ取ってもらえたなら嬉しい。


ネモフィラを見ながらそんなことを思った。

 

何かを成し得るGWなのか、いつものように何も変わらないGWなのか?


ゴールデンウイークがやって来た。

人生何回目のGWだろう。
あれをやろう、これもやろう。
そんな期待で僕の妄想は膨らみ続ける。


これだけの連休があればなんだってできる。
本を読み、勉強をして、知見を広げ、新しい人生を作り出す。
GW後には仕事だって辞めてやる。
この連休を活かして、僕は新しい自分に生まれ変わるのだ。


そんなGWがいよいよやってきた。


1日目、まずは普段の疲れを癒そうじゃないか。
たまにはぐーたらな一日があってもいい。


2日目、午前中はメジャーリーグ中継にかじりつく。
生放送で見れるなんて幸せだ、ああビールが旨い。


3日目を迎える。
僕はなぜだか焦りだす、でも大丈夫GWはまだ始まったばかり。


・・・


5日目、GWが半分過ぎる。
おかしい、この4日間僕はいったい何をしていたのだろう。


・・・


7日目、GWもあと3日。
今日が終わればいつもの土日じゃないか、おかしい。


あと2日、あと1日、何かしなきゃ、何か変えなきゃ。
それでもカウントダウンは進む。


チーン。


いいGWだった、十分休んだし、家族と一緒に過ごすことができた。
いつものように自分を慰め、自分を誤魔化す。


そしていつもの毎日が始まる。
僕はこんなGWをもう何十回も繰り返してきた。


変えたい、変わりたい。
仕事だって、生活だって、生き方だって。


これだけの連休があればなんだってできる。
なんだってできるはず。。。


ずっとそんなこと思ってきた。
俺は本気出してないだけ、そんな映画があったっけ、絶対に見るものか。
ああ、またこうしていつもの自分に僕は戻っていくのだろうか。


こんなことを書いている今日は5月1日、既にもうGW3日目だ。
昨日も一昨日も、ぐーたらな一日を過ごしてしまった。
だって木曜日に3回目のワクチン接種をしたから体がだるいのだもの。


ええい、ダメだ、このままではいつもの、いつもの僕にしかならない、
だから決めた。


とりあえずブログを書く。


だって、僕にできることはそれくらいなのだもの。
でも、感じたことや考えたことを文字にして表すのは面白い。
それに何処かの知らない誰かが見てくれるかもしれない。


何かを表現できるってことは楽しいこと。
僕にできることはこれくらいしかない。


それなのにこのブログも2月からまったく更新していない。
まずはやれることからやろう。
できることがあるのは幸せなこと、やれるのにやらないのはバカだ。


ブログだけじゃない、きっと何事も一緒。
やるか、やらないか、それだけのこと。

そんなことを思った。

感情

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スノーボード平野歩夢さんが金メダルを獲得した。

 

スタートを切るその瞬間、テレビはサブチャンネルの切り替え画面に。
巷でも話題のようだ、ご多分に漏れず我が家も一緒。
なんとか切り替えた時はすでに遅し、世紀の瞬間を見逃した。
一緒に見ていた妻もおかんむりだ。

 

しばらくしてツイッターを見ると、サブチャンネルがトレンド入りしていた。
おなじ思いをした人がたくさんいたらしい。
買い物から帰ってきた妻にも教えてあげた、ネットでサブチャンネルが話題になっている。
それを聞いた妻は言う。
「サブチャンネル?なんのこと?」

 

なるほど、つまらないことは忘れるにつきる。
そんなことにこだわっていて何になる。
素直に平野歩夢さんの金メダルに感動すればいい。

 

金メダルが決まった時の平野歩夢さんのガッツポーズ。
普段はあまりしない、この時は自然と出た。
インタビューでそう言っていた。
それだけ自分自身が納得する滑りだったのだろう。
二回目で高得点が出なかったことに対する思いもあったに違いない。

 

僕らは自分の感情を隠しがちだ。
嬉しくても悲しくても、常に人目を気にしている。
感動なんてしていない、普通のこと、いつものこと、たいしたことない。
そんなふうに気持ちを押し殺す。
いったい、なんのためにそんなことをするのだろう。

 

自分の感情を自然に表現できる人は素敵だ。
ウソ偽りのない自分の気持ち。
そんなことができる人になりたい。
そんな何かができる自分になりたい。

 

金メダルみたいな特別なことじゃなくていい。
些細なことでいい。
そんな日常を送りたい。

 

そんなことを思った。

 

暇つぶしの人生

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最近、酒の量が増えている。

 

遅くとも夕方の6時には仕事を終える。
テレワークが日常となったから、1時間半の通勤タイムが不要になった。
夕食までの一時間、ひとり気ままに酒を飲む。

 

まずはビール。
つまみは冷凍の枝豆をレンジでチンしたもの。
足りなければ一口サイズのベビースター
僕は手が汚れる食べ物は嫌いだ。

 

そのあとワインをチビチビ飲む。
妻がどこかで買ってくる安いワイン。
暑い日は氷を入れて飲むこともある。
かち割ワイン、意外と飲みやすい、何より飲み過ぎなくていい。

 

スパークリングワインを飲む時もある。
ちょっとココロに余裕がある時。
シュワシュワとした泡を部屋の照明に透かしながら飲む。
夏であればまだ残る陽に透かして見る、最高だ。

 

最近は日本酒も飲む。
元々酒は強い方ではないから、日本酒は避けてきた。
それでも最近は旨いと思うようになり、よく飲む
ワインより複雑に整えられたその味。
歳と共に味覚は変わるのだろうか、それとも鈍感になり新たな刺激を求めだすのだろうか。

 

酒屋であれやこれやと酒を選ぶのは楽しい。
最近飲んでうまかったのは「山本」という山形の地酒。
限定の生酒だったが、透明な飲み心地のその酒は新鮮だった。
きれいな飲み心地の中に日本酒の香りがうまく溶け込んでいる。
強い酒が苦手な僕にはあっていた。

 

こうやって自分に合う酒を探し、晩酌する時間は何ごとにも代えがたい。
ちなみに僕は「限定品」に弱い。
ついつい早く買わなきゃ、いま買わなきゃ、そう思ってしまう。
まったくお安い性格だ、我ながらそう思う。
だから僕は騙されやすいのだろう、どうでもいいこと。

 

こうして今日も酒を飲む。
僕にとって酒を飲む時間まで、単なる暇つぶしでしかない。
仕事でもプライベートでも一緒。
早く夕方がやってこないかな。
そんな毎日、そんな人生を送っている。

 

誰かが言ってたっけ、人生は暇つぶし。
案外悪くないな、そんなこと思うのは歳をとったからだろうか。

 

羨ましいだろ。
誰に言うでもなく、ひとり呟いてみる。

自分勝手

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先月、久しぶりに雪が降った。
やはり東京で降る雪は珍しい。
しばらくの間、窓の外を見続けてしまった。
まあ、僕が暇なだけのこと。

 

雪だけじゃなくて、雨の日もずっと外を見続けてしまう。
何が面白いのかって?
いやいや、こんな面白いことないと思う。
空から水が降ってくる。
しかも、ドバっとじゃなくてサラサラとシトシトと。
よく出来たもの。
こんな不思議な光景、見逃しちゃいけない。
僕はいつもそんなことを考えている。

 

だからなのだろう、いつも大事なことに気がつかない。
自分のことばかり考えている、そんなことを人から言われる。
僕は自分が思ったこと、感じたことを考えているだけ。
それなのにみんなは僕のことを「自分勝手」と呼ぶ。

 

でもその通り、僕は「自分勝手」な人間。
だって自分は自分でしかないのだもの。
生きているのも自分でしかない。
ある意味「自分勝手」であることは当たり前。
自然な人間の姿だと思う。

 

かといって、みんながみんな、自分勝手では生きていけない。
だから、人を思いやり、みんなが一緒に生きていく社会が必要になる。
その中で、同じ価値観を持ち、社会の一員となることが求められる。
「自分勝手」ではいけない、子供の頃からそう教え込まれる。

 

いつしか人は、自分を思いやることより他人を思いやることを優先してしまう。
そして、自分がそうであるように、相手も自分に対してそうであって欲しいと思ってしまう。
そんな自分は、自分が他人にどう思われているか、常に考えるようになる。
いつの間にか、自分の評価を相手に求めてしまう。
そんな自分は、そんな誰かの奴隷となってしまう。

 

まったく困ったもの。
「自分勝手」で自然な自分でいたい自分。
それじゃ生きられないから、相手を思いやる自分。
いつしか、自分も思いやられることを求める自分。
自分が大切だから、自分が一番でありたいと思う自分。
そんな自分の評価を求め、自分が自分でなくなる自分。

 

面白いね。
でもよくわかった。
結局すべて、「自分勝手」な自分が原因だということ。

 

僕らは「自分勝手」な生き物。
だから「自分勝手」でいればいい。
自分を思いやるのも、相手を思いやるのも、結局は自分のため。
全ては「自分勝手」な自分のため。
幸いなことにそれでも生きていける世の中に僕らはいる。
恵まれた世の中。
だったら、「自分勝手」な自分でいたいじゃないか。
誰にも属さない、誰のものでもない自分。

 

そのためにすべきこと。
自分で自分のことを考えること。
自分で自分を制御できること。
だから僕はこんな雑文を書いているのかもしれない。
そうしないと「自分勝手」な自分を忘れてしまいそうだから。

 

ああ、今日も楽しい一日だった。
青い空でも見ながら、ビールでも飲もう。
明日も楽しい一日がやってくるに違いない。
「自分勝手」な自分でいられることに乾杯だ。

 

得意なこと

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僕の得意なことは何だろう。
そんなことを考えてみたけれど、これといって思い浮かばない。

 

どちらかというとダメな自分、そんな自分ならいくらでも浮かんでくる。

 

自分勝手
飽きっぽい
ぐうたら
自意識過剰
人見知り

 

やめよう。
朝から気が滅入る。

 

でもこんな僕だと自覚しているからこそ、自分の得意なことも探してみる。

 

真面目
言われたことはキチンとやる
人に気を使う
相手が喜ぶことをする
責任感が強い

 

我ながらつまらない自分。
人にうまく使われるタイプ、自分でもそう思う。

 

でもだからこそ、こんな自分から脱皮したい、
いつもそんなことを考えている。

 

さらに考える。
もっと自分が得意なことはないのか。
そして、それを活かせることで新しい自分に生まれ変われないものだろうか。

 

ひとつ思いついた。


僕はよく「妄想」する、いつも気がつけばモーソーしている。
あんなことやこんなこと、こんなことが起こればいい。
寝る前や電車の中、暇なときはそんなことばかりを考えている。

 

出張先で突然の大雨、その場にいた素敵な女性と出会う自分
会社を辞め、有名バンドの一員としてテレビに出演する自分
雷に打たれ天才になり、シンガーソングライターになる自分
自分の絵の展覧会を各地で行い、愛車で日本中を駆け巡る自分
線路に落ちた子供を間一髪で助け、ヒーローになる自分

 

我ながら恥ずかしくなる。
でも、こんなモーソーをいつも考えている。
そんな時間は僕だけのものだから。

 

そうだ、これを職業にすればいいのだ。
僕の職業はモーソー家です。
いつか、そう言える日が来ると言い。

 

新しい職業の発見。

 

本気でそんなことを思っている。
こんな50代もいる、みんなも自信を持ってほしい。

 

人生は難しい

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僕は飛行機がキライだ、正確に言うと嫌いだった。
狭い空間に閉じ込められているのがとにかく苦手だった。
それなのになぜか歳をとるごとにそんな恐怖心はなくなり、今では何の問題もない。
窓の外から地上を見下ろし、ひとりはしゃいでいるくらい。
こうして人は歳をとると色んなことに鈍感になる。
世の中に適合し、生きる術を得る、人間というのはよくできたものだ。

 

以前、新幹線に乗った時、指定席のその車両はガラガラだった。
一組の若い女性たちのグループがいた。
五人組の女性は学生だろうか、三人掛けの席を向かい合わせにして楽しそうにおしゃべりをしている。
旅行かな、楽しそうでいいな、そんなことを思う。
自分も買い込んだ雑誌とビールでひとりの時間を満喫しよう。
そう思い座席を確認すると、何と自分が指定された席は、その五人組の一角、つまり向かい合わせになった三人掛けの席のひとつだった。
そんなバカな。。。、そう思い呆然としていると彼女たちのひとりが気づいたようだ、こう言った。
「来ちゃったよ」

 

・・・

 

あの時の彼女たちの自分を見る目、まるで何かしでかしてしまったかのような人を見る目、あの目が忘れられない。
僕はさすがにその席に座ることはできず、車掌に状況を伝え、幸い空いていた別の席に移らせてもらうことができた。
それにしても、あの時の彼女たちのリアクション、その時の空気が忘れられない。
いったいぜんたい、僕が何をしたっていうのだろうか。
この記憶は、いくら歳をとって鈍感になった自分であっても忘れることができない。

 

その何年か後、広島からの帰り、同じように新幹線に乗った時のこと。
夏休みの時期で混んでいたため、貯まっていたポイントでグリーン車に乗った。
グリーン車で過ごすひとりの時間は格別だ。
ビールとおつまみを買い込み自分の席に向かう。
二人掛けの席が向かい合わせになっている。
まさか。。。
やはり自分の席は、三人組が座っていたその向かい合わせの席の一つだった。

 

この時は他に空いている席がなく、その席に座らざるを得なかった。
その席は三人の親子連れだった、家族旅行の帰りだったのかもしれない。
その親子は僕に気を使い、席を元に戻してくれた。
それでもそのあと、ぎこちない時間が続いた。
前の席に座る子供が、僕の隣の席に座る父親だろう人物に時折お菓子などを渡している。
子供がチラチラと僕を見る。

 

・・・

 

いったいぜんたい、どういうことか。JRは僕に恨みでもあるのだろうか。
僕が単についていない奴、そういうことなのだろうか。
この時のことも僕の忘れられない記憶の一つだ。
それにしても思う、僕はあの時どう立ち振る舞えばよかったのだろう。

 

自分の席なのだからと、そこに毅然と座り、自分勝手に過ごすべきなのか。
それとも、気を使い自由席に移り、ほかの空いてる席を探すべきだったのか。
いっそのこと、その親子連れと仲良くなり歓談でもすべきだったのか。
まさか、あの五人組の女性たちにもそんな大人の余裕を見せるべきだったのだろうか。
いま考えても、どうすればよかったのかわからない。

 

歳をとると鈍感力が増す。
気になっていたことが気にならなくなる。
それによって、それまでできなかったことが何の苦痛もなくできるようになる。
そんなこともあるだろう。
でもそんな鈍感力は自分が作り出したものではない。
そう、やはり鈍感力などに頼ってはいけないのだ。
自分で考え、自分で行動して対処する、自分の力で自分に訪れた危機は克服すべきなのだ。
いくつになろうが成長しなければならない。

 

こうやって、おじさんは今日も一人悩む。
人生って難しい。

 

祝・成人(50歳)

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今日は成人の日。
晴れ着やスーツに身を纏った新成人の姿がニュースに映し出される。
そんな姿を見て、自分にもそんな頃があったことを思い出す。
なんてことはない。

 

僕は成人式に行かなかった。
特段の理由があったわけではない。
行っても良かったし、行かなくても良かった。
誰からも誘われなかったから行かなかった、ただそれだけのことだ。

 

友人がいない?
まあそれは正しいのだけど、僕に取っての成人式は、それくらいのものだった。
式に行って、たいして仲が良かったわけでもない友人と会ってもしょうがない。
面倒くさいだけ、同じ理由で同窓会の類にも出席したことはない。

 

昔から人とつるむのは苦手だ。
それでも仕方なく、友人たちと一緒にいた。
自分から進んで一人になることはできなかった。
一人ぼっちの寂しい奴、そう思われたくなかった。

 

我ながら矛盾している。
人と一緒に居たくないのに一人でいるのは嫌。
だから、いつも自分を装ってきた。
いつも誰かの目を気にしてきた。

 

そんな僕も、最近、ようやくそんな自分から卒業できた。
ひとりで何でもできるようになった。
食事だって、旅行だってひとりで行ける。
いや、ひとりの方がいい、気兼ねなく何でも楽しめる。

 

ようやく僕は大人になれたのかもしれない。
祝・成人50歳、そんなところだ。
いったい成人の日から何年経っているのだろう。
でもいい、とにかく僕は大人になれたのだ。

 

みんなが行くから行く、誘われたから行く。
決まりごとだから行く、お祝いだから行く。
喜ばなきゃいけない、楽しまなきゃいけない。
そんな慣習に囚われてはいけない。

 

自分のことは自分で決める。
それが大人だ。
それでこそ成人だ。
これからの時代は、そんな自分が求められる。

 

今日、成人を迎えたすべての人に言いたい。
成人とは与えられるものではない、自分自身でなるものだ。
だから時間をかけてでも、自分の意思で成人になるべきだ。
そうじゃないとこれからの時代は生きられない。

 

さあ、僕も成人になった祝杯をあげようじゃないか。
今日はスパークリングワインにしようか。
ひとりで飲む時間は楽しい。
誰にも気兼ねなく過ごせる至福の時間。

 

これは友人がいない自分への言い訳ではない。
決してない。
事実だけど、それでもいいじゃないか、僕は大人になったのだ。
おめでとう、祝・成人。

 

生まれた時から僕は僕なのか?

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僕は見栄っ張りだ。

 

大学生の頃、友人に誘われて代官山の美容院に行った。
床屋でなく初めての美容院、前に倒れるのではなく後ろに寝転んで髪を洗ってもらえる美容院。
住宅街の一角にある一軒家を改築したお洒落な美容院。
もちろん、看板などない。
芸能人も通うというその美容院は、たいそう居心地が悪かった。

 

環境やサービスが悪いということではない。
自分の理解を超えたお洒落さに僕自身がついていけなかっただけだ。

 

その美容院に行くために雑誌を見ながら服を一式そろえた。
一番カッコいい服を着こんで、髪を切るためだけに横浜から代官山に向かう。
緊張し続けながら、美容師さんに気を使いながら髪を切ってもらう。
こんなだから、耳を二回も切られた。

 

それでも、僕は全然大丈夫だから気にしないで、などい言いながら謝る美容師さんに気を使った。
その時の傷跡は今でも残っている。
結構、血が出たんだよなー。痛かった記憶だけはある。

 

髪型なんかも美容師さんにお任せだった。
色々と言われたような気もするが、わかっている風を装うのに必死だった。
サイドを刈り上げ、ツンツン頭にされた時は自分でも似合っていないと思いながら、ありがとう、そんなふうに笑顔で答えた。

 

家に帰り、驚いた親の顔が忘れられない。
しかもその時の一言、「お前、頭の形良くないんだね」
それから刈り上げたことは一度もない。

 

こんな若かりし日を思い出して気づくことがある。
それは、今も昔も僕の「所作」がまったく変わっていないということだ。

 

オシャレな洋服屋さんに入っても、高級なレストランに入っても、同じように行動している。
店員さんに勧められると断れない。
店員さんに気を使い、わかった風のいい客を演じてしまう。

 

そうかそうなのだ、僕は昔から変わっていないのだ。成長もしていない。
となると今の僕は、いつ頃出来上がったのだろうか?
もしかしたら、生まれた時から僕は僕だったのではないだろうか?
なんかおかしなことを言っている。

 

でもそうなのだ、僕は僕自身でしかない。
つまり僕は僕のことを受け入れるしかないのだ。

 

受け入れたうえで、どうするか、これが大事なのだと思う。
それなのに僕は僕自身を否定して、変えようなんて思ってしまう。
僕は僕自身なんだから変えようがないのに。

 

ふー、なんか大切なことを発見してしまったような気がする。
今日は僕が僕に気づいた誕生日だ。
まったく、何十年かかってるんだろうね、
まあ、これも歳をとったからわかることかもしれない。

 

頑張ろっと。。。

 

僕の心を震わせる何か

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すっかり季節は秋、というか肌寒い日が続き、あの寒い冬に向かっている。

 

なんか寂しい、もの悲しい、そんなふうに感じてしまうおセンチな季節。
なぜなのだろう?

 

そう思って考えると、一番の理由は陽がドンドン短くなっていくことだと気づく。
ついこの間まで、仕事を終えた18時から日没までの一時間が至福のビールタイムだった。
ベランダのアウトドアチェアに座り、夕焼け空を見ながら飲むビールは最高だ。

 

そういえば、9月末の中秋の名月の時は、南に向かって右手側はまさに陽が落ちる瞬間、空を赤く染めて一日が終わろうとしている。それに対して左側は早くも満月が空に耀き神秘的な光を放っていた。
こんな景色を右目と左目で一気に見られるこの瞬間ってスゴイ、そんなことを感じてしまうような素敵な光景だった。

 

必死になって、より目の反対、つまりそれぞれの目を外側に見開き、この奇跡の光景を満喫しようとするアホな私。どう考えてもおかしな人。

 

それだけの奇跡の光景が僕らのまわりに存在しているということ。そして、存在しているのだけれど、気づくか気づかないかはその人次第。
これってとても大事なことだと思う。

 

いつもの日常はいつもの日常ではない。
いつもの日常はいつもやってくるとは限らない。
そういうこと。

 

だから常に何かに気づけるように準備しておくことが大事。
だから僕は出かけるときもイヤホンで音楽を聴き続けたりはしない。
特別な瞬間に気づける自分でいたいから。
そんなことを思う。

 

そんなことを思うけど、いつもの変わり映えのしない日常を送っている。
でもそんな日常こそがそもそもスペシャルなのかもしれない。

 

きっと写真家や映画監督という人たちは、そんな日常を切り取ることの価値を知っている人たちだ。
それを人は芸術という。
おかしなもんだよね。

 

気づくか気づかないか。
誰にも訪れるその瞬間。
だったら自分でも気づいてみたいじゃないか。
誰もがそう思うはず。

 

芸術かどうかは見た人が決めればいい。
自分にとっての芸術とは何なのか。
それは自分の心を震わせる何か。
その何かはそこいら中にあふれている。

 

楽しいね。
楽しいじゃない。
僕の心を震わせる何か、世の中はそんな何かで溢れている。
絶対に気づいてやるからな、そんなふうに思う。