「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

新しい社会がやって来る ~アフターコロナの新たな現実~

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こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、最近お金が減らない。だって飲みにも行けないし、付き合いもない、お店も開いてないから買い物もできない。それなのに給料は変わらず入って来るし、通勤費だってそのまま。だって、サラリーマンなんだもん。

 

世の中はコロナウイルスで大変なことになっている。飲食店をはじめとした色んな業種が店を開けない、家賃や従業員の給料も払えない、もう店を続けられない、従業員もクビにするしかない、そんなニュースが繰り返されている。

 

間違いなく大変なことが起きている、テレビや新聞は大変だ大変だ、こんな大変な世の中になっちゃってる、そう喧伝する一方、実は大変じゃない人たちがたくさんいることはあまり報じていない。マスコミもその一人。

 

どこかの県知事が、職員は10万円の給付金を県内事業者の休業支援金に充てるべきだと言って炎上した。僕は知事のいう通りだと思う。だってサラリーマンや公務員は‭仕事も変わらないし、給料も変わらない。なのに一律10万円ってよくわからない。

 

このウイルスによって損害を被った人、営業自粛などによって収入が減った人たちへの保証は国が徹底すべきだ。そしてそれとは別に経済対策として一律の給付金を図ればいい、ひとり30万円くらい配布すれば、アフターコロナの新たな需要を喚起し、市場活性化できると思う。

 

そして、その新たな需要、人や社会が新たに求めるものを提供できる企業や業種が、今後の経済を成長させるのだと思う。こういった中から新しいソニートヨタが生まれるんだと思う。それが経済の循環というものだと思うし、政治の役割だと思う。

 

サラリーマンだって同じだ。今のまま、今の仕事を続けていたら、新しい時代に生き残れない。在宅勤務だなんて聞こえはいいけど、同じ仕事をするだけであれば、楽ちんなだけ。家の環境が、ストレスが、なんてデメリットばかりが報じられるけど、そんなの当り前、甘えなさんなって感じ。サラリーマンだって今のままではいられない。

 

このような現実を、なぜテレビや新聞は報じてくれないのだろう。そう思って気がついた、マスコミ自身がサラリーマンだってことに。であれば、アフターコロナに一番求められるのは新しいマスコミなんじゃないかな。新しい希望に満ちた世界がやってくる、そう期待したいな。

まあるい地球は誰のもの ~水の惑星、母なる海~

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北海道、新千歳空港の近くにウトナイ湖はある。なんてことない普通の湖だけど野鳥がたくさん生息しているそうだ。湖畔には道の駅があって、そこから湖を見渡すことができる。

 

単身赴任していた頃によく行った場所だ。何があるわけでも、何を目的としていたわけでもない。ただただ、ボーっと湖を見ていただけ。冬には当然ながら湖畔に雪が積もってる。

 

なんか、湖や海って、ただただじっと見てしまう、その場所に佇んでしまう、そうさせる何かがある。僕らが知らないうちに何かを求めているのかもしれないし、もしかしたら見てるんじゃなくて、見られているのかもしれない。

 

よく、母なる海なんていうけど、本当にそうなのかもしれない。本能的に感じてしまうのかもしれない。僕らはそこから生まれ進化してきた。何千年も昔のかつての記憶、思い出をカラダが受け継ぎ感じているのかもしれない。

 

そう考えると、そもそも水って何だろう。液体、H₂0、僕らの体の中にも流れている。体の60%は水で出来ているそうだ。その水を含んだ僕が僕であるならば、‪いま僕の目の前にある湖の水って、いったい何なのか、もっと言えば誰なのか?

 

もしかしたら、水って、湖って、海って、生きてるんじゃない?生き物なんじゃない?

 

そんなバカなことを思う私。でも体の60%が水であるならば、多数決で僕の体は水のもの。こんな考えおかしい?

 

もしかして、僕の体を支配しているのは水であって、その水が生きるために僕の体を利用しているのではないだろうか。だから僕らは海や湖に惹かれてしまう、ついジーっと見てしまう、いや、やっぱり見られている、そうに違いない。

 

地球は水の惑星、母なる海、やっぱりね、そういうことなんだ、どうでしょう、ノーベル賞もらえませんかね?

 

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お多幸なクルマ選び ~ランドローバー・ディスカバリー(旧型・紺色)~

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久しぶりに紺色の旧型ランドローバー・ディスカバリーを見た。スクエアなボディにガラス部分の面積を広くとった、モダンで力強いデザイン。本当に欲しかった。でも買えませんでした、お高いんですもの。

 

そんなディスカバリーもモデルチェンジを重ね、今やフツーの高級SUVというか、レンジローバーディフュージョンブランド的な立ち位置になっちゃった。クルマの性能的には進歩してるんでしょうけど、なんかピンと来ない、ココロに感じるものがない、新しい未来を感じない。

 

最近は、そんなクルマばっか。アウディなんかもそう、カクカクしたシャープな造形は良くできたクルマ感を漂わすんだけど、それ以上でも以下でもない。お医者さんが乗ると似合いそうな、論理的に考えると非の打ちどころのないサイコーのクルマ。そんな風に思う。

 

最近の若者ってクルマに対する興味があまりないらしい。ゲームやら音楽やらファッションやら、他にしたいことがたくさんある、クルマに大金使うって考えがない、もちろん見栄を張るっていう考えもない。

 

ある意味、正しいけど、裏返すと魅力あるクルマがないってこと。クルマは究極のプライベート空間、自分だけの場所、自分だけの時間がそこに流れている。だからそのクルマに大切な人を乗せて、一緒に過ごす時間はかけがえのないもの。それがクルマ。

 

クルマは僕らの生活に刺激を与えてくれてナンボ、そこから僕らの未来が生まれてくる。だから素敵なクルマをたくさん発明してほしい。僕もそんなクルマに負けないように頑張る。

 

新しい未来を一緒に作っていけるクルマに乗りたい。そんなクルマとドライブに行きたい。それが新しい僕をつくることになる。ランドローバーから新しいSUVが出るらしい、見たことのない未来を感じさせてくれるクルマだったらいいな。

 

アフターコロナのスーパーシティ ~暮らしが変わる、生き方も変わる~

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コロナウイルスはそろそろ収束するのだろうか?もしかしたら始まりだったりして。偉そうな学者さん、したり顔のコメンテータさん、どこか不安そうな政治家さん、誰も知らない、そんなことわからない。

 

今年の正月、こんな2020がやって来ると誰が思っていただろう。本当ならいまごろオリンピック一色のはず。

 

スーパーシティ、スマートシティ、そんな言葉をよく聞く。あのトヨタ自動車でさえ、さまざまなモビリティがシームレスにつながるトヨタシティ(Woven Cityと言うそうです)を富士の裾野につくるらしい。

 

僕らが求める新しいシティって、どんなだろう。コロナ前とコロナ後では、求められるモノも生活も変わってしまったのではないだろうか。

 

これまでの都市づくりは、平常時を前提にしていた。これからは平常時と緊急時が切り替えられる都市づくりが求められる。それが新しいシティだと思う。

 

今回、みんなわかった、緊急時は自由や人権が制限されないと生命が守られないってことに。そしてみんな気づいてる、これを平常時にも使いたがる権力者がいるってことを。

 

だから緊急時に必要な対応、外出禁止や罹患者の履歴管理を頑強なセキュリティを保ちながら実現する、デジタルの出番、そうテクノロジーで実現する、そして、それが悪用されないための法整備をしっかり図る、その両面から新しいシティを作る必要がある。

 

これまで考えられてきたスーパーシティやスマートシティはお払い箱。早くこういう議論ができるとイイ。政治家やマスコミはホント何やってんだろ。

 

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絵を描くということ ~自分で咲かす表現の花~

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部屋の断捨離をしていたら、むかし描いた絵が出てきた。そういえば、最近は全然描いてないし描く気もない。絵具だって固まっちゃってる。筆だってボロボロだ。

 

そもそも、なんで絵なんて描いたのだろう。習ったことだってないし、プロになるわけでも、なれるわけでもない、それでも何かを期待していた。「13歳からのアート思考」末永雪歩さんが言うところの表現の花を咲かせたかったんだろうね。

 

そもそも絵画を見てスゲーと思ったことってない。教科書に出てくる名画だなーとか、本物みたいだなーとか、その程度。ココロに響いた経験がない。

 

それでもピカソやらマチスやらには何かを感じた。でも、僕ならもっとココロに響く絵が描ける、そんなことを思っていた(大きな間違いです)。

 

きれいな色で、美しいと思ったモノや感情を表現してみたい、そんなことを思って何枚か描いてみた。

 

改めて見ると、僕的にはしっくりする。いい絵だと思うし、部屋に飾ってみたいと思う。たぶんに自分が描いたという、充実感があるからだろう。

 

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そう考えると、絵を描くということは、単に絵を仕上げるということではなく、絵を描く行為そのもの含めて「絵」なんだと思う。

 

だから自分の描いた絵は自分にしかわからない。世界の名画だって実はそうかもしれない。きっとピカソマチスやダビンチだってそうだったに違いない。

 

また描いてみようかな、なんか新しい発見、もしかしたら発明があるかも。そんなこと思う今日この頃でした。

 

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断捨離な一日は新しい一日を築く ~現在・過去・未来~

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ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さん、渡辺真知子の「迷い道」という歌が好きらしい。この歌の歌詞「現在・過去・未来」を聴いて、なんで「過去・現在・未来」じゃないんだろうと思ったそう、やっぱ天才は何かが違う。

 

ゴールデンウイークに部屋の大掃除、断捨離を実行した。本棚にある本、読み返したことのある本なんてほとんどない。表彰状やトロフィーと一緒、過去の出来事が置いてあるだけ、単なる履歴の物置き。

 

これからの未来に何の役に立つのか。何の役にも立たない、そう思ったから捨てた。全部捨てた、色んなものを捨てた。

 

これから、未来のためには、どうしたらいいんだろう、そう思って本棚のスペースをたくさん空けた、机の上に置いてあったものもすべて片付けた、壁に貼ってあったものも全部外した。すべてこれからのモノを置くスペースになった。

 

そうしたら、部屋にいるのが楽しくなった。嬉しくなった。単純だね。僕らは単純な生き物。だから、いつも過去ばかり考えてしまう、簡単だから。

 

これからは未来を考える。真っ白なノート、そんな感じ。可能性ってそういうことなのかもしれない。自分で考える、感じる、気づく、そういうこと。僕らには未来しかないのだから。

 

今日は朝起きて髪の分け目を変えてみた、新しい未来を作ってみた。単純だね、僕らは単純な生き物だもん。

 

お多幸なドラマ ~「俺の話は長い」に癒される~

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最近、家の居間にあるテレビ、同じドラマが繰り返し流れてる。生田斗真さん主演の「俺の話は長い」だ。

 

いっつも流れてるので、たまにちょこっと見て面白いなーとは思ってた、なのでゴールデンウイークに全話一気に見てみた。

 

感想は・・・「ナニコレ?」むっちゃ面白いじゃん、っていうかこんなお多幸なドラマがあったの、そんな感じ。

 

なんかねー、不自然なんだけど、自然な感じで展開される日常、ありそうでないんだけど、あったらいいなと思わせる人間関係、なんか親近感と羨ましさがごちゃ混ぜになったような感覚がサイコーなドラマでした。

 

こういうドラマってあるんだな、何回見てもニヤニヤ、時に声に出して大笑いしてしまう私。ずっと我が家のテレビでリピート放送されていた理由がわかります(みんな幸せを求めているんだね、すみません)。

 

このドラマの憎いところが、食事の風景。たまには美味しいもの食べたい、今日くらいは贅沢してもいいんじゃないか、そんな僕らの些細な日常を鷲づかみにしてくれます。思わず僕も毛ガニを買いに行っちゃいました、ちょっとお高いけど、家族みんなで食べたい、そんなことを思っちゃった。

 

最近気持ちが上がらないな、ちょっとメンタルがなー、と思っているStayHomeに疲れたお方には最高の処方箋だと思います。お気になった方はhuluへ!(宣伝ではありません)

 

本の可能性 ~本は本を読む時間を含めて本なんだと思う~

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本を読んでいると、いつの間にか違うことを考えている時がある。書かれた文章を間違いなく目で追っているんだけど、違うことを考えているから頭に入ってこない、だからまた最初から読み直す。そんな感じ。

 

難解な文章はただでさえ頭に入ってこない。だから平易に書かれた本が好き。難しい言葉を難しく書く人なんてちっとも偉くないと思う、誰にでもわかりやすく表現してくれる人が偉いし賢い。

 

一頁にぎっしり文字が詰まった本も好きじゃない。スカスカなくらいに書かれているほうが好き、ページがどんどん進むから、本を読んでるっていう充実感がある。だから同じ理由で電子書籍もあまり好きじゃない。

 

わざと文字がスカスカで、装飾だけは凝っていて、値段だけ高い本もある。それに比べたら文字がぎっしりの本は良心的でお得なのかもしれない。けど、なんか読むこと自体に飽きてしまうし、疲れてしまう。どんなに面白い本であってもそう。

 

作家さんからしたらひどい話。でも、本を読むっていうのは、本を読む時間の余裕や、その時間の過ごし方、それらをひっくるめて本を読むということだと思う。

 

本を読むことの楽しさ、嬉しさ、そんなひと時を過ごしたい。だから本を読む。

 

そう考えると、本って、もっともっと可能性があるのかもしれない。エルビス・コステロさんも歌ってたもんね、「Everyday I Write The Book」。そんな新しい本に出会いたい、そんなことを思うハルウララ

 

東名高速に乗って豚丼を買いに行く ~便利と幸せは比例するのか~

 

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豚丼を買いに厚木まで行ってきた。横浜青葉インターから東名高速に乗り、厚木インターで降りて10分くらい、目的のお店「なまらうまいっしょ」はある、お持ち帰りもやってる。

 

豚丼と言っても吉野家の牛丼の豚版ではない。北海道十勝の名物豚丼、炭火で肉厚の豚ロースを焼き、それをご飯の上にのっけて、焼き鳥のタレのようなものをかけるだけ。ただそれだけ。

 

ただそれだけなのにこれが旨い、旨いんだなー、なんでだろ。だから、ときどき無性に食べたくなる。休日のお昼、StayHomeな家族に食べさせたくて出かけた。

 

ひとつ900円そこらの豚丼を買うために往復2,000円近くかけての買い出し。ある意味、贅沢、とっても贅沢。だけど、僕らの生活には、既にこんな贅沢が日常化している。Amazoneだって何だって、送料0円で欲しいものが何でもやって来る時代。

 

そんな生活を支えているのが物流。休日にもかかわらず東名はガラガラ、走っているのは物流を支えているトラックばかり。

 

いつの間にか、横浜青葉インターから第三京浜の港北インターまでが首都高でつながっている。乗ってる時間は4~5分だろう。結局、厚木の豚丼屋さんから我が家までの所要時間は40分弱。一体どこまで便利になるのだろう。

 

まだ温かい十勝豚丼をみんなで食す。みな旨いとは言うけれど、たいしてありがたみは感じていない様子。便利すぎる世の中に慣れすぎなのか、僕が期待しすぎなのか、まあ旨けりゃいいじゃん、自分が食べたくて行ったのだもの。

 

達成感だけは確かにあった、ある日の休日でした。

 

お多幸な音楽 ~「アルペジオ」小沢健二~

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欲しくてほしくてたまらなかったもの、待ちに待ったもの、ようやく手に入れたけど、なかなか使わないでしまい込んでしまう、そんな時がある。とっておきのタイミングまでとっておこう、そんな感じ。

 

小沢健二さんの17年ぶりのアルバム「So kakkoii 宇宙」が昨年の11月にリリースされた。このアルバムもなぜだか、今度のとっておきのドライブ、それも一人ドライブの時まで取っておこう、そんな気持ちのまま今に至っていた。

 

結局、ドライブにも行けずじまいだったので、ようやく「So kakkoii 宇宙」をひとりで聴いた。うーん、久しぶりにお多幸な気持ちに包まれちゃった、やっぱこの人は天才だよね。ミュージシャンじゃなくて「詩人」、そして「発明家」そう思います。

 

中でも「アルペジオ」という曲の中で紡がれる「語り」、いいよねー、こういうの。
「小沢くん、インタビューとかでは何も本当のこと言ってないじゃない」、これね、あの頃との空気感というか、雰囲気がすごーくよくわかる。こういう詩が今でも書けるって、どういう生き方してきたんだろ、この人。

 

そして「この頃は目が見えないから」っていう歌詞、まさか小沢健二さんが、こんな詞を歌う日が来るとは思わなかったけど、こんな詩をサラッと歌ってしまえる、それがさっき言ったような生き方、それも素晴らしい歳の取り方をしてきたってことだと思う、完敗だね。

 

そんなアルペジオを聴きながら、お多幸なひと時を感じさせてくれる一日、久しぶりに素晴らしい時間でした、やっぱ小沢健二っていいね。

 

イン・マイ・ライフ ~ビートルズの奇跡に今ごろ気づく~

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ビートルズを聴いている。いまさら何ですかって感じだけど、AppleMusicの家族プランに僕も入れてもらったんです(入れてもらった、これが正しい言い方なのがニクイところです)。それで何を聴こうかと考えたところ、久しぶりにビートルズでも聞いてみようかと思い至ったわけです。

 

そんなこんなで、久しぶりに聞いたビートルズは、ガガーン、超衝撃的でした。やっぱりビートルズって「奇跡」だよね、この世の奇跡。こんなスゴイ音楽をこんな大量に作ってしまった彼らはいったい何者なのでしょうか。単純なリズムで、一度聴いたら忘れないメロディー、そして心を揺さぶるその歌詞と歌声、すべてが完璧だもんね。

 

なんか、この世のメロディーの大半はビートルズがつくっちゃったんじゃないのかしらん。まさにビートルズは単なるミュージシャンじゃなくて音楽家でもなくて、「発明家」なんだと思います。

 

最近、マンガのJINっていう、現代のお医者さんが江戸時代にタイムスリップして、最新の手術や治療でたくさんの人を救っちゃう物語を読んだ(これも今さらですみません、セールになっていたので電子書籍大人買いしてしまったのです)。

 

ビートルズもそうなんじゃないのかと思っちゃった。未来の人間がタイムスリップして作った音楽がビートルズ、そういえば、去年そんな映画が公開されていましたね「Yesterday」。僕はまだ見ていませんが、やっぱりそれだけ当時というか、今でもですが浮世離れした音楽なんだと思います。

 

それにしても改めて聴くビートルズの数々の名曲はなぜだか新鮮で感動的でした。そしてもう一つ思ったのが、聴いていて疲れないということ。クルマの中でも家の中でも、外出先のヘッドホンなんかでも、音楽を聴き続けていると疲れることってありません?それがないんですよ、ビートルズには。ずっとこの音楽を聴いていられる。なんか心地よい気分がずーっと続くんです。

 

何なんだろうねこれ。究極のヒーリングミュージックではないかと思っちゃった。実は僕らが知らないだけで、これも彼らの一つの発明なのかもしれません。恐るべしビートルズ

 

僕はビリージョエルが好きで、そのドンくさいというかイマイチ洗練されていないけど、精いっぱいカッコつけてる彼の音楽が大好きなんだけど、そのビリージョエルが、自分のアイドルはビートルズだとかねてから言っていた。

 

数年前、メッツの本拠地だったシェイスタジアムが建て替えられることになったとき、その場所での最後のコンサートをビリージョエルが演ったんですね。その時にね、来たんですよ、最後の最後にサー・ポールマッカートニー様が。もう、その時のビリージョエルの顔ったらなかったね。信じられないと驚いた顔、最高に嬉しそうな顔、とても幸せそうな顔、もう子供みたいでした、二人でレットイットビーを演じる姿がとっても印象的でした。

 

なんかね、ビリージョエルの作る音楽も十分メロディアスなんだけど、やっぱりちょっとヒネリを加えてるんだよね。これ、他のミュージシャンもそうだと思います。なんでかっていうと、やっぱりシンプルなメロディーはすべてビートルズに発明されちゃってるからだと思うんです。だから少しヒネリを加えないとビートルズのパクリになってしまう。そんなとこではないでしょうか。

 

風薫る五月、StayHomeなゴールデンウイークではありますが、ビートルズに身を任すひと時はサイコーな時間なのでありました。また発見しちゃったな、そう思う反面、僕もいつか何かを発明できる自分でありたいと思います。ビートルズに負けないように七転八倒して自分なりの音楽を作り上げたビリージョエルの姿も想像しながら、そんなことを思い感じる春の日なのでした。

 

じっとしてていい ~なぜかホッとする日々~

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僕はいつも何かに焦っている。いつものことだ。ゴールデンウイークだってそう、何かしなきゃ、こんな機会に何かを成しえなきゃ、未来の自分を作らなきゃ、そんなことばっか考えてるうちに休日はカウントダウンを始める。一日過ぎ、二日過ぎ、半分終わり、あと二日、あと一日、そしていつもの毎日が始まる、この繰り返しだ。

 

朝起きて、晴れ渡った空を見て、どこかに行かなきゃ、出かけなきゃモッタイナイ、そんなこと思う。実際、それで出かけてみたりもする。楽しかったりもする、充実してたりもする。でも僕が欲しいのは充実してたという結果だけ。

 

いつもそうなんだ、本を読んでても、映画を見ていても、スポーツ観戦していてもそうだ、読んだ、見た、観た、そんな結果が欲しいだけ。そのプロセスを純粋に楽しめない自分がいる。なんでだろう、そう思って考えてみた。

 

たぶんこんなトコだと思う。僕は僕が充実した生活を送っている奴だってことにしたいんだ、キットそうなんだ。僕は誰かに自慢したいんだ、僕はこんなこと知っている、こんな経験もある、こんな瞬間に生で立ち会ったスゴイ奴なんだってね。

 

それだけじゃない、加えて面倒くさがりだ。結果だけ得られれば、そのことに対するプロセスも感動もすべて自分のものになったと思ってる。だから途中経過なんて面倒くさいだけ、結果が得られればすべてよし。絵なんか描いててもそうだ、途中で早く完成させたくてしょうがなくなる。だからチャチャっとすませてしまう。そんな奴が表現の花なんて咲かせられるわけない。

 

でも、今年のゴールデンウイークは少し違う。何もしなくていい、何もしちゃいけない、何処にも出かけちゃいけない、そんなStayHomeな日常が僕を少しだけホッとさせている。友達や家族とどこかに出かけてはいけない、充実した休日なんて送っちゃいけない、家でひたすらじっとしてなきゃいけない、そんなことをテレビは言い続けている。

 

なんか、何もしちゃいけない日常に僕は安心している。こんな僕でいていいんだ、みんなも同じなんだ、そんなことを感じている。そう思って分かった。僕は常に人と比べているんだ、人よりいい暮らしがしたいんだ、人より幸せな自分でいたいんだ。そんなことを思っている僕なんだってことがわかった。

 

だから、人と比べなきゃいいんだ、そうだそうだ、それだけなんだ。そんなチンケな自分だってことに気づいていなかったんだ。でも気づいた、今気づいた。だから比べない、羨ましいなんて思わない、自分のほうが凄いなんて思わない、そういうことなんだ。

 

こんな些細なことを発見した今年のゴールデンウイーク。こんな僕に発明の日はやって来るのだろうか、でもいいじゃない、また一つ気づいたんだから、そう思って今日を生きる、一日を生きる、少しでも楽しく一日が送れたらいいな、そんなことに思い気づく青い日々なのでした。

 

当たり前ってなんだ ~戦争を知らない大人たち~

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「これは戦争だ」、各国の首脳がそんな言葉を口にしています。新型コロナウイルスとの戦い、それを戦争状態と位置づけ、危機感を持って国民にに語り掛け、団結を求め、ともに立ち向かう必要性を説いています。

 

安倍総理大臣もこれは第三次世界大戦だと言われておりました。コロナウイルスとの戦争、それはそうかもしれません。でも賢明な各国の首脳たちは違う意味で使っているのではないかと思います。

 

民主主義、これまでの自由の定義が変わる可能性、それを戦争になぞらえて使っているのではないでしょうか。もっと具体的に言うと、この危機を乗り超えた後に繁栄するのはどこの国なのか、たぶん中国を念頭にその覇権争いに勝つための戦争だと認識しているのではないかと思います。日本の政治家たちもそのような危機感をもっているのか心配です。

 

先の世界大戦のあと、繁栄したのは軍事大国でありながら経済大国であるアメリカでした。まさに世界を制したと言えるでしょう、それがいまゲームチェンジの時を迎えようとしています。もしかしたら、このゲームチェンジの機会を中国は自ら仕掛けたのかもしれません。そんな疑いをアメリカも持っているのでしょう。なんか、アジア人に比べて欧米人の感染率、致死率がひときわ高いのはなぜなんだろう、単純に不思議に思います。

 

それにしても、このようなパンデミックに未知のウイルスを抑制するには、人権や自由をないがしろにしてでも、都市を封鎖し、感染者を隔離し、徹底的に感染ルートを特定してしまえる国家の強制力が必要だということが証明されてしまいました。

 

これまでの社会の常識が根本から覆されてしまうかもしれない。命のためには自由さえも犠牲にしかねない、そんな危うさが民主主義にどっぷりつかった我々の意識を変えてしまうかもしれない。そんな危機感を強く持ちます。

 

自由、人権、平和、平等、倫理、そんなモノの上で僕らの世界は成り立っていますが、命を守るためにはそれらを犠牲にしてもしょうがない、そんな風潮がこのコロナウイルス騒動の後にやって来るような気がしてなりません。

 

人間は忘れやすい生き物です、あの戦争で何が起きたのか、タイムリーに経験していないから当たり前と言えば当たり前だけど、そんな想像力すら働かなくなってる。今の暮らしが当然のことだと思っている。

 

僕らは気づかなければいけない、今の暮らしは努力し続けないと手に入らないものなんだっていうことを。歴史は繰り返す、これは僕らが過去を忘れてしまう、忘れる中で生き続けている生き物だということなんです。

 

僕ら人間の本質って何なんだろう、そんなことを考えてしまいます。だから気づかなきゃいけない、思い感じなければいけない、当たり前を当たり前と感じない感性を僕らは育まなければいけない。いつもと違うゴールデンウイーク、これを当たり前に感じてはいけない、そんなことを思う。この青い空がいつまでも続く、こんな当たり前を当たり前と思っちゃいけない世の中になってる、そう思います。

 

お多幸なクルマ選び ~ランボルギーニ、エリート筋肉な緑のバッタ~

 

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先日、クルマで信号待ちしていたら、隣に緑色の大きな車が止まった。デカッ、そう感じたのはタイヤ、なんか僕のクルマの車高くらいあるんじゃないかと思っちゃった。そんなジープスタイルのSUVなんだけど、クルマ本体はシャープな面で構成されたスーパーな奴。そう、ランボルギーニ様がつくるスーパーSUV「ウルス」だったのでした。

 

なんか不思議なクルマだったなー、緑というか黄緑色のそいつはSUVでありながら、窓も薄くてでっかいタイヤにぺったんこの車体が乗っているかのよう、なんか月面探査機みたいな雰囲気でした。うちの近くの道路に全く似合わない非日常的なそいつなのでした。

 

ランボルギーニって言えば、カウンタックミウラ、イオタ、そうサーキットの狼で有名なスーパーカーメーカーでございます。それでいながらライバルのフェラーリには伝統でも伝説でも人気でもかなわず、もちろんF1のようなピュアスポーツで実績を残しているわけでもなく、単なるといっては語弊がありますが、分かりやすいスーパーカー専門メーカーさんなのでありました。

 

そんなランボルギーニさんもアウディ傘下になって、デザインも乗りやすさ(もちろん乗ったことはございません)も一新、シャープな面で構成された現代的なスーパーカーに生まれ変わったのです。往年のカウンタックを彷彿させるガヤルド、そしてその後継のウラカンアヴェンタドールと、フェラーリよりもわかりやすいスーパーカー感で結構な販売台数を記録しているようです。

 

やっぱり単純なカッコよさ、こういうクルマを求めている人もいるんだと思いますけど、私はさっぱり食指が動きません。だって狭そうだし、運転しづらそうだし、デカいし、なんか楽しくなさそうなんだもん。

 

こういうクルマに乗りたい人って、きっとナルシストな人が多いんだろうなー(とても失礼なことを言っております)、筋肉のついた体にピタッとした服を着ているような人、見て僕を見て、カッコいい僕をもっと見て、そのクルマ版がこのランボルギーニ様のような気がします。

 

ふー、疲れないのかね、こういうクルマ乗ってて。きっと、そういう人も結構多くて、そんな需要から生まれたのが、このスーパーSUVなんでしょうね。しかし家に帰って「輸入車年鑑」を開き調べてみると、この「ウルス」お値段なんと2,800万円。

 

はーーーーーーー?2,800万円?変わった車だなーとは思ったけど、こんな値段のブツがフツーの一般道をフツーに走っていること自体に驚きます。いったいどういう人が、こういうクルマを買うんでしょうね。世の中ってスゴイ、あらためてそんなことを思います。

 

しかしこの「ウルス」、僕には緑の巨大なバッタにしか見えんせんでした。バッタの足の筋肉ってスゴイじゃないですか、なんかあれと、見て見て、僕の筋肉見てっていう、スーパーナルシスト感が私の中でシンクロしてしまいました。

 

それにしてもこんなスーパーカー、一体誰が買うんでしょう。これならホンダのS660の方がよっぽどスーパーカーっぽくてカッコいいよな、そんなこと思ってしまいました。S660が20台近く買えるんじゃないかしら、まあ、こんなこと考える僕は一生ランボルギーニ様とは縁がないんでしょうね。S660に乗って、屋根をオープンにして緑の中を走り回る、そんな光景を考えてひとり悦に入る青い日々なのでございました。

 

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僕はこんな暮らしがしたかった ~いつまでも続けたい、StayHome~

 

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僕は仕事が好きじゃないし、人と会うことも面倒くさい、正直に言うと今の外出自粛の生活がかなり心地いい。なんてたって会社に行かなくていい、もちろん仕事はそれになりにやってますよ、会社で仕事していた時より忙しいくらい。それでも家から外に出ないでいい、この生活、家の中で仕事を完結できてしまうこの状況が心地いいんです。ずーっと続けたい。実はそう思ってます。

 

なんてたって、自分の時間がたっぷりある。往復3時間近くかけていた通勤時間が不要だし、ちょっとした空き時間、そのすべてが自分の時間になる。要は自由な時間が決定的に増えた。こんな素晴らしいことってないと思う。だからこの生活でも会社に行ってるのと同じ成果を発揮したい、それでこその働き方改革だと思います。

 

まず朝が素晴らしい、今まで5時に起きて7時には会社に着いていた。だって混んだ電車に乗りたくないんだもん。それが今は6時30起床、そしてまずは散歩だ、20分くらいだけど気持ちいいったらありゃしない、季節そのものが気持ちいいんだけど、やはり朝一の生まれたての空気を吸い込むのは最高だ。朝日に輝くすべてのものが美しい。

 

家に戻り、朝食をとり、ヨーグルトを食べ、新聞を読みながらコーヒーを飲む。それでもまだ8時過ぎだ。会社でおにぎりを食べていた今までに比べて、なんて素晴らしいんだろう。8時30から仕事を始めるけど、打ち合わせが入ってなかったら、本を読んだり考え事をしたりすることだってできる。トイレだって自由気ままに落ち着いた環境で足すことができる。

 

昼食は家族と一緒だ。もちろんカレーとかラーメンとかテキトーなものが多いけど、心地よい。いつものソファに座って昼寝することだってできる。休日しか見られないソファに座ってみる窓の外の景色は格別だ。思わずビールでも飲みたくなってしまう。別に飲むことだってできるしね。

 

5時を過ぎるとソワソワしてくる。早く仕事を終えて、まだ明るい空を見ながらビールでも飲みたい、実際、6時ごろには飲み始める。至高の瞬間だ。そりゃ会社帰りに飲む酒も美味しいさ、でも僕は自由気ままに家で呑む酒だって大好きだ。テレビを見ながら、好きな音楽を聴きながら、本でも読みながらプファーってやる瞬間は最高だ。

 

そんなこんなで一日が終わる。食事が終わってもまだ8時、時間はたっぷりある。何をしたっていい、自分の時間、自由な時間だ。眠くなったら眠ればいい、明日も会社に行く必要はない。6時半ごろまでたっぷり寝ればいい。布団にくるまり、うつらうつらと色んなことを考える時間は至高の時間だ。

 

朝がやってくれば、また新しい一日が始まる。仕事も一生懸命やるさ、でもたっぷりある自分の時間、自由な時間に何をするかも考える、楽しい、睡眠もたっぷりだから体調もいい。なんかいいんじゃない、僕はこういう生活がしたかったんじゃないのか、これがお多幸というものなんじゃないのか、そんなことを思ってしまう毎日。

 

まったく、社会がこんなことになってるっていうのになんてお気楽なんだろうか。このままじゃ経済が成り立たなくなり、早晩いまのようなサラリーマン生活だって送れなくなるかもしれない、そんな危機感を持つべきだ。それはそうだと思う。でも危機感を持つだけでも仕方がない。

 

やっぱり僕らはというか、僕は働き方を再設定すべきなんだと思う。この居心地の良い働き方で成果が上げられるように取り組むべきなんだと思う。仕事をリモートワークに変えていくんだ、だって会社に行かずして仕事ができるってことがわかっちゃたんだもの。

 

これって企業だって気づいたはずだ。都会の一等地で高い賃料払って、交通費を支給して、人を雇う必要なんてないってことに。これからは間違いなくリモートワークの時代になる。だからその前に僕ら自身が働き方を変えてしまう必要があるんだ。

 

そして生き方を変える必要があるってことだ。自分の時間、自由の時間を楽しもうじゃないですか。自粛自粛でストレスっていうけど、これまでの古い働き方、自己犠牲の上に成り立つ生き方に慣れちゃってるだけではないだろうか。僕らは新しい生き方を送ることができるチャンスに遭遇しているんだ、少なくとも僕はそう感じている。新しい青い日々を送っていこうじゃありませんか!ねっ。