「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

大腸がんでガ~ン 〜その①「人間ドック」〜

 

 

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最近、毎日ブログを更新してる。なんでかっていうと暇だから、理由あって一ヶ月近く会社を休んでる。

 

人間ドックで大腸がんが見つかったの。入院・手術なんて、小学生の時の盲腸以来、いままで病気という病気にかかったことがなかった、インフルエンザだって経験無し、ワクチンすら打ったことがない。うちは4人家族なんだけど、僕以外の三人は毎年ワクチンを接種している、なのにその三人がインフルにかかり、僕だけかからなかった年もあった。我ながら健康だよなーなんて勝手に思っていたけど、病気は突然やってくる。色んなことが初体験、思うこと、気づくこと、感じること、たくさんあった。

 

毎年、横浜のランドマークタワーにあるクリニックで人間ドックを受けている。会社の健康診断もあるんだけど、うちはがん家系だし、一年に一回くらいはちゃんとしたところで検診を受けた方がいいかなと思い、バリウムやらエコーやらひと通りの日帰りドックを受診してきた。

 

今回もいつものように検査を終え、最後に医師の問診。検査結果の画像をモニターに写しながら、胃もキレイ、エコーも問題なし、ちょっと肝臓に脂肪がついているとか、ビールが大好きなので尿酸値が高めとか、その程度の内容でまったく問題なしとの説明、ただ最後になって「あれ、便に血が混じってますね。痔ありますか?」とのこと。たまーにお尻が痛くなって、トイレットペーパーに血が着くことがあったので、ああそれかなーと思い、そうだと思いますと曖昧に答えた。いずれにしても紹介状書きますから、一応、消化器系のお医者さんに見てもらってくださいねということでした。

 

クリニックを出て、朝から何も食べていないので、近くのお蕎麦屋さんへ。もう2時近いので空いてます、せいろと生ビールを頼み、至福の平日、昼飲みです。横ではビジネスマンが遅い昼食を取ってます、うーん優越感、バカですね。まだお腹の中にはバリウムちゃんがいるというのに、お気楽なもんです。

 

痔の治療か、やだなー何されるんだろ、お尻をどんなカッコでお医者さんに見せるんだろ、なんてこと考えたりしてましたが、ちょっと不思議に思うことがあった。採便の時、結構太いうんちが出たんだよね、だから便を取る棒もけっこう便の中にグリグリと差しこむことができた、便の中の方をほじくった感じ、だから痔だったら、便のまわりに血がついてるはずなのにおかしいよなーなんて思ってた。でも体調もぜんぜん悪くなかったし、こうやってビールも美味しいし、やっぱり痔だよなーと思いながら、その日は、ほろ酔い気分で家に帰った。

 

数日後、クリニックの紹介状を持って、家から歩いていける、とある大学病院へ。以前、読売新聞の病院の実力みたいな記事で、この病院が消化器系に強いことをなぜだか覚えていたからなんだけど、やっぱり心の中では、なにかあるかもしれないなという思いがあったんだよね。

 

予約無しでいったので、散々待たされましたが、若いお医者さんに診察を受け、今までしたことがないのなら一度、大腸内視鏡検査をしましょうということで、その日は予約を入れて帰宅。検査は一日仕事になると思うのでそのつもりで来てくださいみたいなことを言われたのでした。うーん、怖い。。。

 

お尻から内視鏡を入れるのかー、胃カメラはやったことがありますが、下から入れたことはありません。想像しただけで恐ろしいなーと思いながらも、いつものように家に帰りビールを飲み、幸せだなーとまだ明かりの残る空を見ながらつぶやく私。その時は、痔の治療と同じように内視鏡やだなー、怖いなーということしか考えていなかった。

 

それにしてもビールって美味しいよね、僕はビールを飲むために生まれてきたんじゃないかとホンキで思ってます。だからビールを飲んでいるときは至福の時間、毎日欠かさず飲んできました、酒が強いわけでもないんだけどね。でも、それがガン、特に大腸がんには良くないらしいのです、ガーン。

お多幸な映画(ドラマ) 〜世界の中心で、愛をさけぶ〜

 

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僕はテレビドラマとかあまり見ない、なんでかっていうと、最近のテレビドラマってなんか重いというか、ドギツイというか、なんかホノボノ感がなくて、後味が悪いことが多いから。かといってNHKの朝ドラは見るのかというとそれも見ない。結局、なんか続けてみるって時間を拘束されるようで面倒くさいんだよね。

 

そんな僕でも、大変感銘を受けたドラマがあって、綾瀬はるかさんが演じる「世界の中心で、愛をさけぶ」、またしても古くて申し訳ありません。このドラマって2004年の制作だから、なんともう15年前だ。えっ、綾瀬はるかさんっていくつなんだ、34歳、ってことはドラマに出てた時はまだ19歳だったのか、スゴイもんだな。

 

このドラマ、何がいいかって、とにかく映像が美しい、一つ一つのシーンがきらめいているというか、輝いているというか、清らかで、純粋で、こんな青春映画があっていいのだろうかというくらい、眩しくキレイな絵が綴られていた。撮影された現場は伊豆の松崎、こないだ伊豆を一周ドライブしてこの地の美しさにあらためて気づいたのだけれど、このドラマを制作したスタッフは天才だね、素晴らしいと思います。ほんとに一つ一つのシーンが写真みたいだった、出てる人の演技もなんか自然体で凄く良かった、純粋にドラマに釘付けになって、純粋に感動して、純粋に素敵だなって思った。こんなドラマ、映画ってなかなかないと思う。

 

映像に負けじとストーリもとても良かった、というか考えさせられた。この物語は生きること、そして死ぬことは何なのかを考えさせてくれた。そもそも、なぜ人は死ぬのか?というか、そもそも人はなぜ生きているのか?って考えちゃった。死ぬのが不思議なら生きてるのも不思議。

 

そもそもこの宇宙ってなんなのか?太陽ってなんだ?なんで燃えているんだろう?いきつくところ、この世って一体なんなのさ?子供の頃、時々こんなことを考えて怖くなった。科学的に考えて、僕らの存在は一体なんなのだろうかと思う、不思議を通り越して、わけわからん。

 

今ここにいる僕は一体全体何者なのだろう。不思議不思議、本当不思議。そう思うと、ノーベル賞とかすごい賞をとって宇宙の謎が解明された!なんて言われたりするけど、そんなこと絶対ないよね。今分かりうるほんの一部分の事実が解明されたというだけのことだ。そんなことわかったって、僕らが存在している理由なんてわかりっこない。

 

なぜ人は死ぬのか、それは生まれたからだと思う。適当に言っているわけではなくて、これが真実だと思う。生まれたこと自体が奇跡、この世に生を受け、存在していること自体がとんでもない奇跡なんだ。だから生まれたあとはボーナス、体を作っている細胞が衰えて動かなくなるのが”死ぬ”ということであって、それまでの間を”生きる”という。だから死ぬことと生きることは相反する言葉のようで本当はイコールなんじゃないかと思う。

 

僕らは奇跡のなかで生きてるんだよね。だから死んだあとのことなんてわかりようがないし、わかってもしょうがない。単に奇跡の瞬間が終わるだけ。だから人が死ぬということは残された人に対しての行為だと思う。

 

だから、僕はいつも思う。人に幸福感を与えられる自分になりたいと。それが僕の目標だよなー、死が残されたもののためにあるとすれば、生きることも同じなんじゃないだろうか。人に何かを与えられる自分であることが、生きるということではないだろうか。人に幸福感を与えられる自分であることが、自分自身の存在意義として、生きている自分のなかで感じることができればこんなに嬉しいことはない。それが生きるということだと思う。そしてそのことを死んだあと残された人がどう感じてくれるか、それが生きること、そして死ぬということではないかと思う。

 

ドラマの中で、死に直面した主人公の綾瀬はるかさんがこういった。「あの世なんてない、天国なんてない、だってここが天国だもの」。ほんとそう思います。

 

僕だって死んだあの人と天国でまた会えたらいいなと思います。でもあの人はやはり残された僕の心のなかに存在し続けるのでしょう。それが生きるということ、そして死ぬということなのだと思います。生きるという奇跡、そして死ぬという奇跡、だからここは天国だというのは正解なんだと思います。

 

最初に最近のドラマは重いから嫌だ、なんて言ったけど、すごい重い話になっちゃった。でもこのドラマのスゴイところは、そんな重いテーマでありながら、あっけらかんとした美しい青春という背景の中で表現してくれたことです、そしてそれをこの上ない素晴らし映像で表現してくれたことなんだと思います。

 

だからこんなに重いテーマでも、心に染み入る素敵なドラマになったんだと思います。綾瀬はるかさんが言う「朔ちゃん、好きよ」、このセリフが大好きでした。サンキュー廣瀬亜紀さん、とってもブラボーな人生でした、拍手。

 

その場所にあるもの 〜太宰府天満宮とスタバと梅ヶ枝餅〜

 

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今日は、学問の神様で有名な太宰府天満宮を参拝してきました。久しぶりの福岡出張、一泊してすぐに帰る予定だったのだけど、思い切って行ってみることにしました。博多から意外と近いところにあるのね、知りませんでした。天神から電車で30分くらい。平日の朝9時だったのだけど電車もものすごく空いていた。

 

仕事がら出張が多くて、これまでも色んな所に行きましたが、名所史跡を訪れたことは、ほぼなし。今回も通常なら朝早い便に乗り、昼前に会社に帰るのがいつものパターン。でも、なんか、そんな急いで帰る必要があるのかなと思っちゃった。打ち合わせや人と会う約束があれば、もちろんその時間に合わせて帰るのだけど、そういった予定はなく、会社に戻ってもデスクワークするだけ。だったら、ちょっと普段はいけないところ、せっかく博多まだ来たのだからどこかによってみようと思ったのでした。

 

でもなんか、後ろめたさというか、なんか感じちゃうんだよね。9時から5時まで会社にいいることが仕事じゃない、必要なのは結果、アウトプットだといつも思っているのに、なんか不真面目なことしてるんじゃないかと思っちゃったりして、ショーションモノでショーワな私です、恥ずかしい限り。

 

でもね、思い切って行って良かった。そうかそうか、ここに菅原道真公が祀られているのですね、梅が枝餅を売る店がずらりと並ぶ参道や、宮内の佇まいなど、初めて訪れる場所に気持ちが高ぶります。特に宮内の木々が厳かな感じで、身が清められるような気がしました。ハーっと深呼吸すると、清々しい気持ちになります。

 

歴史ある場所は、建物などの史跡があるというだけではなく、そこにある自然が一体となって、ひとつの名所になっているのだと思います。苔に覆われた石段や樹齢何百年とも思われる大木、池やそこに掛かる橋、そしてそれらを照らす太陽の陽やバックに青々と染まる青い空、それらが一体となんって、何百年もの歴史をつむぐことで、この場所ができているのだと思います。そこにあるものすべてを感じる、最近そんな事ができるようになってきました。

 

それにしても、学生さんばっか。参拝するのも長蛇の列。修学旅行と思わしき学生さんに混じっておっさんが並ぶ姿は違和感ありまくりです。そりゃそうか、学問の神様なんだから、学生さんがいるのが正しい姿だよな。でも、僕だってもっと頭良くなりたいもん、頭脳明晰になりたいもん、歳取ったって、その歳なりの青春があるんだもん、と自分に言い聞かせて参拝させていただきました。

 

帰る道すがら、参道にあるスターバックスへと向かいます。朝ホテルでコーヒーを飲めなかったので帰りに寄ろうと決めていたのです。このスタバは新国立競技場で有名になった隈研吾さんがデザインしたそうです。こういう場所で、こういうデザインのスタバを作るとはなかなかやりますよね。素敵な発想だと思います。

 

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しかしスタバに着くとなんと長蛇の列、なんじゃこりゃと思ったら、修学旅行の学生さんたちです。なんでここまで来てスタバなの?私も人のこと言えなのだけど、どうしてもコーヒーが飲みたかったので並びました。それにしても修学旅行でしょ、学生でしょ、もっとお土産屋さんで地元の銘菓や飲み物飲んでくださいよと思っちゃいます。しかも学生さんたち、なんとかプラペチーノでキャラメル多めとか、よくこんな高いもの買えるよな。もしかしたら女子も一緒だから、奮発しちゃってるのかな、なんて思ったり。これも時代なのかなー、とおっさん感丸出しです。

 

でも参道に戻ると、できたての梅が枝餅を口に頬張る女子も発見、やぱりこうじゃなきゃね。そんなこんなで、初訪問の太宰府天満宮、やっぱりテレビで見たり、人に話を聞いたりするだけじゃなくて、自分で感じてみなきゃいけませんよね。スタバの学生さんや梅が枝餅も含めてのこの場所なんですよね。そういうことをひとつでも二つでも感じていくことがお多幸な日々なんだろうなと改めて思った次第です。仕事も頑張りたい、そして人生も頑張る、それでこそのお多幸な日々だよねと思い感じた青い日々なのでした。

 

AIなんかに負けない 〜僕らには共感する力がある〜

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最近、どこの業界もAIの話題でもちきりだ。AIを活用して新たなビジネスを作り上げよう、より便利な世の中を作ろうという話だけではなくて、そのうち殆どの仕事がAIに置き換わってしまうとか、AI自体が人間の能力を超える日がやってくるとか、なんとなくイノベーションの話をしていながらも、自分の仕事がなくなるんではないかという戦線恐慌感が漂っている。きっとみんな、自分がどれだけ価値ある仕事をしているか、自信がないんだね、

 

AI、要は人工知能ってことだけど、大昔からある言葉だよね、何をいまさらって感じで、あまり未来感を感じない。昔と同じで機械ができることはドンドン機械を活用すればいいだけの話、それがちょっと高度化されるだけ、なんていうと世の中の物知りさんに怒られちゃうんだろうね。

 

でも実際はクルマの自動運転なんて実現しないと思う。無人タクシーとか、無人トラックとかね、だって線路の上しか走らない鉄道だって無人で走らせてるのはごく一部だ、それを色んな道路を自由自在に人間が運転している中で走らせるなんて不可能だと思う。できても特定の場所とかルートとかにかなり限定されると思ってる。要は大げさすぎるんだ、それとAIを使ってできることがハード面とソフト面とでごっちゃになりすぎてる。できるのはほとんどがソフト面だ。

 

みんな、世の中の風潮に流されすぎ、そりゃAIに置き換わる仕事も出てくるだろうけど、これまでと同じく、できるものはドンドンさせればいいだけ、考えるべきはそうじゃなくて、僕らが価値ある仕事をしているかどうかということだと思う。つまり、AIがあろうがなかろうが関係ない本質的な問題なんだと思う。単に今まで避けてきただけの話。それがAIに絡めて問題提議されているだけのことだ。

 

旧態依然としたやり方でこれまでの事例を踏襲するだけの仕事、閉鎖的なマーケットで既得権益に依存した仕事、朝の9時から5時まで会社にいることが仕事だと思ってるサラリーマン、こういった仕事や仕事を担っている人達はAIなんかに関係なく淘汰されていかなければならない、それだけの話し。

 

AIをダシにして、これから必要な仕事、本来あるべき仕事の姿が議論されているんだと認識を改めるべきだと思う。じゃあ、これから僕らに求められる仕事のスキルはなんだろうか、色々あると思うけど、代表的なのは「共感力」だと思う。

 

介護や看護の仕事はAIに置き換わらないと言われているけど、なんでだと思う?ロボットが代替するのが難しいという物理的なことではない、それは介護される人、看護される人の求めに応える力が必要だからだ、僕はそれが「共感力」だと思っている。

 

病気になって病院に行くとわかるけど、ほとんどのお医者さんや看護師さんは、見ず知らずの僕らのために精一杯、尽くしてくれる。看護師さんなんか嫌な顔ひとつせずにお世話をしてくれる。その姿にはホント頭が下がる。

 

その時に彼ら彼女らは、病気を治すためにこうしなさいとか、ああしなさいとか、言うだけではない。気分は悪くないですか、どこか痛いところはありますか、ちょっと痛いけど我慢してくださいね、大丈夫もうすぐ終わりますよ、怖くないから心配なくて大丈夫ですよ、などなど色んな声をかけてくれる。ただ治療するだけではなく、患者の気持ちに共感し、納得させ、安心させ、その上で治療をするのだ。こんな芸当はAIにはできない。

 

どんな仕事でも手順やマニュアルはある、それをただただ実行するだけなら機械でもできるけど、介護や看護の仕事はその手順を担うために相手に共感することから始めるのだ。なぜ共感するのか、それは治療をするために必要だからだ、そしてこの人の病気を直したいという気持ちがあるからだ、こんなことは仕事の手順やマニュアルにすることはできない、背景にあるのは、介護したい、看護したいという、「志」だと思う。この「志」がある仕事であれば、AIに置き換わることはありえない。これからの僕らの仕事に求められるものは、僕ら自身がその仕事に担う「志」だと思う。

 

みなさんは「志」のある仕事ができていますか?正直、僕はできていないや、だって、このことは先日、病院に行って初めて気づいたんだもの。恥ずかしくなっちゃったよ。だからこれからは恥ずかしくない仕事をしたいと強く思った。これからもそう思いを持ち続けたい。AIなんか関係ない、僕らは僕らが担うべき価値ある仕事をするだけだ、「志」を持ってね。それでこそ価値ある自分、お多幸な自分になれるってもんです、頑張りましょーね。

 

イノベーションは誰のもの 〜映画「アイランド」の世界は現実か〜

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中国って既にコンビニも電車も顔認証決済で利用できるらしい。顔認証決済の利用登録者も既に1億人を突破、これって数だけだと日本人全員の規模、いつの間にやら社会のインフラになっちゃってる。これって今年に入ってから急速に普及し始めたらしい。プライバシー保護の観点で、欧米では普及を法律で制限しようとしてる間にトニカクやっちゃえって感じでデファクトスタンダード化を進めている。

 

そりゃ、トランプさんだって怒りますよね、というかホントに脅威に感じているんでしょう。日本だっていまごろキャッシュレスっていって盛り上がってるけど、すでに周回遅れの状態、5Gだって同様だもんね。

 

なんかこういう動きを見てると、やったもん勝ちなのかなって思っちゃう。でもやったもん勝ちの「勝ち」ってなんだろう、誰が誰に勝つことを言うのだろうか。

 

国としては、他の国を出し抜いて先行者利益を獲得できるのかもしれない、でも、もしかしたらそれが自分の自由の幅を狭める結果になるかもしれない。となると先行者利益は誰のものって話になる、国のため?でも国ってそこに暮らす人達でなりたっているわけだから、ということは一部の人のためだけ?ってことになっちゃう。

 

たぶん、自分の自由の幅を狭める結果になるなんて思ってないんだろうね、とにかく勝つ、他国に勝つ、他者に勝つ、そして自分が幸せな生活を送るってことなんだと思う。たとえそれが国民全員でなくても。まあ、それはそれでわかるし、アメリカだって日本だって競争することで社会が発展してきたわけだからね。あえていえばルール、倫理観に基づいたルールの中で競争するってことが求められているんだろうね。それによって、勝つには勝ったけど、いつの間にやら自分や社会の不利益になったなんてことがないように。

 

むかし、「アイランド」っていう映画があった。汚染された世界から隔離された安全で快適なコミュニティで暮す主人公、実は人間に肉体のパーツを提供するために作られたクローンで、それに気づいた主人公が外の世界へ脱出するっていうストーリーなんだけど、こんな世界、いつか現実になってしまうような気がしてしょうがない。っていうか実は実現してるんじゃない?と思っちゃう。

 

僕らはお肉を食べるために、牛や豚や羊を殺す、相手が何を考えているかなんて思いもせずに、その対象が人間になるというだけだ。たぶんね、人間ってモノスゴイ残忍な生き物なんだと思う。だってどんなに清廉潔白なヒトであっても、生きてるものを口に入れなきゃ生きていけないんだから(もちろん植物だって生きてます)。

 

だから決まりごと、ルールが必要なんだよね。そして元が残忍だから、ルールを作る側が暴走しないように見張る必要がある、それが民主主義のルールなんだと思う。よく自由のためとかっていうけど、それ以前に残忍な僕らを抑制するためにルールがいるんだと思う、そこに僕らはもっと謙虚に気づくべきだと思うんだ。

 

ちょっと硬い話になっちゃったけど、大事なのは、物事の本質を知る、考えるということ、そして自分自身を知るということだと思う。それさえできれば、僕らの可能性は無限大なんだから、素敵でお多幸な生活が送れるはずだ。技術はドンドン進歩する、イノベーションだっておきる、あとは使う側の僕らの問題だ。それを自覚して取り入れていくことが僕らに求められていることだと思う。考えて考えて考え抜いて生きていきましょーね!

 

いつかはクラウン 〜次はgoogleの無人運転?〜

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「うちのクルマはずっとトヨタ、〇〇トヨタの△△さんから車を買っている」そんな話をかつてはよく聞いた。人と人との縁、紹介されたり/してみたり、いつのまにやら家族ぐるみでお付き合い、もちろん他社のクルマになんて裏切れない。なんとも昭和な感じです。

 

いまでも、こんなビジネスはたくさん残っている。モノじゃなくヒトを買う、バカにしているわけではありません、そういう世界があってもいいと思ってます。相手を信じて、相手の人柄に惚れて、その相手が進めるものを購入する、それで間違いないものを手にい入れて満足感を得るわけです。

 

だから、食料品やら日用品、仕事道具やコモディティなモノだったら、そのような信頼関係の中で取引できることが望ましい。汎用品であったとしても、モノの「価値」や「品質」は「コスト」だけじゃないんだぞと言うことです。だから商売が成立する。サザエさんに出てくる三河屋さんもそうですね(今ではほとんど見かけません)。

 

問題なのは既得権益にあぐらをかいてビジネスをしている人達です。特定の人達で特定のマーケットを牛耳り、特定の人達だけで利益を享受する人達、テレビでもよくやってますよね、小さな町のお店が年商〇〇千万なんてね。なんで今どきこんなことが成立するのか不思議に思いますが、世の中そんなに甘くはないので、こういう人達は時間とともに淘汰されていくんだと思います。もちろん、自分の努力で変えていくこともできるはず。

 

信頼関係の中で、代々トヨタの車に乗り続ける人、幸せなことなのかもしれませんが、僕にとっては信じられないことです。僕にとってクルマは嗜好品であって日用品ではないから。まあ、これって考え方の違いなんでしょうね。人によってクルマは単に移動の手段、高価な日用品なんでしょう。あとは見栄と値段しだい。

 

いまでこそ、レクサス様が君臨していますが、トヨタの最高峰モデルといえばクラウン、「いつかはクラウン」というキャッチコピーが有名です。僕はタイムリーには知りませんが、その頃のクルマの価値観、ヒエラルキーを端的に表している名文句だと思います。

 

そんなクラウンに乗り継いでいると思わしきご夫妻を今でも見かけます、流石にレースのシートカバーはなくなりましたが、クルマ自体への興味はあまりないのでしょう、ゴルフクラブが4セット積めて、見栄えが良ければいい、そんな感じです。〇〇トヨタの△△さんから、そろそろ車検の時期ですよ、買い替えたほうがお得ですよ、最新のクルマはシートヒーターも付いてるんですよ、みたいな甘い囁きに、そうか、もうそんな時期か、とかなんとか言って買い換えるんでしょうね、ある意味うらやましい限りです。

 

でも残念ながら、そういう人達も絶滅危惧種に近づいています、それに自動運転が普及したしたら、まっさきにこういう人達がターゲットになるでしょう、googleの自動運転車とかに乗り換えられちゃう、だってそういう人達にとっては移動手段の道具として何を選ぶかってことであって、クルマを選ぶ話じゃなくなっちゃうんだから。トヨタも死活問題だと思います。

 

それをわかってかどうかは知りませんが、さすが天下のトヨタさん、やりました!新型クラウン、正直ビックリ、このデザインって素晴らしくない?ハッキリ言ってカッコいいです。だっていつかはクラウンに乗る人達って基本保守的だと思うんですよ、これまでのクラウンの世界の中で暮らしたい人達。それをトヨタ自身がぶち壊しちゃった。

 

でもこれって、いつかはクラウンの人達を切り捨てたわけではないと思います、トヨタはいつかはクラウンの人達を変えてしまおうとしたのです。クルマは嗜好品、カッコが大事、そしてトヨタじゃなきゃダメなんだと意識転換させようとしてる。それがこの新型クラウンなんだと理解します、恐るべしトヨタ。いままでのビジネスモデルにあぐらをかこうなんて一ミリも思っていない、自分たちが変わることでお客も変える、さらにはマーケット自体も変えてしまおうと思っている。いつまでも既存の人達を相手にしている三河トヨタじゃねえぞ、欧米の自動車メーカーになんて負けない、ましてやgoogleになんかにゃ絶対に負けないぞという意思表示ではないでしょうか。

 

新型クラウンは「いつかは」クラウンじゃなくて、「今でしょ」クラウンです。こんな大企業でも自らを変えようとしているんだと思うと元気が出ます。僕ら消費者だって負けないぞって思うし、小さなことでもいいから、少しでもこれまでの自分を変えていける自分になりたいとあらためて思います。そんなことに気づかせてくれたトヨタさん、ありがとうございます。そして、やっぱりクルマはFun to Drive、自動運転なんかに負けちゃダメだよね!そして僕らもね、頑張りましょー。

 

お洒落さんって難しいー 〜人生に必要なのはセンス〜

 

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最近は、働き方改革やらなんやらで会社の制度もずいぶんと変わってきた。今どきの会社は今どきの施策をとらないと若者はドンドン離職してしまう。そんな若者に媚びるわけではないが、今までの当たり前や常識から離れて、アウトプット至上主義、そのための科学的プロセスの実践へと会社も変わり始めている。もちろん、それは望ましいし、そうしないと会社も生き残れないとようやく悟ったんだと思う。

 

だけど、昭和の時代から続く封建的な会社制度、一朝一夕には変わりません。というか変わろうとしているのだけど、ピントがずれることもしばしば。せっかくの施策が目的化してしまってる姿もよく見かける。

 

僕の務める会社でも、ドレスコードフリーが始まった。堅苦しいスーツじゃなくてもいいですよ、自由な格好で自由なイノベーションを生み出してくださいってやつ。この施策自体はいいですよ、大賛成、こんなちょっとしたことでも、慣習に縛られない働き方を促すことはいいことだと思う。でも、このような施策を優先するあまり、お客さんのことをないがしろにしちゃうケースもある。お客さんがスーツにネクタイなのに、自分は会社の施策ですからとラフな格好、これってどうなのって思っちゃうでしょ。でもいるんですよね、そういう人、客観性が著しく低い人。

 

この辺は学校の延長線でしか物事を考えられない昭和の会社にありがちです。仕事の本質より、自社の制度や決まりを先に考えちゃう。そもそもその時点で、お客様のことを考えていないということが明らかになっちゃうから、市場からの退場に向けて一直線ということになんだけどね。そんなこともわからないから、ゆでガエルになっちゃうんだ。

 

それからね、ドレスコードフリーって、けっこう見てて痛々しいんですよ。お硬い会社でこんな施策を始めると、もうそこら中に痛々しい人がいっぱい。ジャッケットの下に丸首のTシャツ、それはいいんだけどこのTシャツが下着みたいに薄手だったり、その下に着ているランニングシャツが透けて見えたりで、ズッコケそうになる(これまた昭和な表現)。

 

やっぱ、センスが無いと仕事だってうまくいかないんだと思う、経営だっていちばん重要なのはセンスだと思う。着ている服だって、自分に似合うがどうか、他人から見てどう思われるか、自分をどう演出できるか、そういったセンスが大事。そういうことができている人は、会社にとって一番大事なことはなにか、市場で求められていることはなにか、いつどのタイミングで実行すべきか、みたいな経営センスも長けている、そう思います。

 

さてさて、色んな事言っちゃったけど、全体的には変わろう、変えようと取り組み始めた日本の企業、とてもいいことだと思います。何ごとも勉強、そして修行が大事ですからね。

 

それにおしゃれ自体は楽しいもんね、たしかにスーツもカッコいいし、楽だけど、ちょっとカジュアルにオシャレするのだってもっと楽しい。そんな中にも清潔でビジネスの現場でも信頼されるような格好をどうつくるか。それがセンスだよね。人生はセンスが大事なんだ、仕事も、プライベートも、もちろん着ている洋服も。お洒落すると自分に自信が持てるってこともあるもんね。単純でしょ。

 

こんな些細なことでも楽しむ人生がお多幸な人生なんだと思います、面白いよね。ニッポンも変わる、会社も変わる、そしてそれより先に自分が変わらなきゃ、センスの良い自分を作るってことは、センスの良い世の中を作るってことだ。本当は政治にもセンスが必要なんだよね、まだまだ僕らにできることはいっぱいだ、楽しんじゃいましょうねー。

 

なんで緊張するんだろう 〜立派な大人ってどんな大人〜

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緊張するって、意識するようになったのはいつからだろう。人前で話すとき、失敗できない、かっこいい自分に見せたい、できるやつって思われたい、いいこと言うって思われたい、いろんな思いが交錯し、それが緊張に変わっていく。そんなこと意識するようになったのは大人になってからのことだ。

 

会社に入って数年立ってから、なぜだか急に緊張するようになった。それまでは人前で喋るのもあまり苦にならなかった、それなのにおかしいなって感じるようになった。なんかカラダが小刻みに震えるのを意識するようになった、震えてるのを誰にも見られないようにしようと思えば思うほど、緊張は高まり、カラダのあちこちが強ばりだす。

 

人前で話すときだけじゃない、若い頃おしゃれな美容院で髪を切られているとき。なんか椅子に縛り付けられたようで動けないと思った瞬間にカラダが強ばりはじめる。小刻みに体が震えだす、震えているのを悟られないようにしようと思えば思うほど緊張は増して行く。かっこ悪い自分がここにいいると思えば思うほど、どうしようもない思いが増していく。

 

自意識過剰と言われればそのとおりかもしれない。でも今ならわかる、僕は自分に自信がなかった。人前で話す時、かっこいい自分と思われたい、髪を切ってもらう時、おしゃれな美容院に似合う自分でありたい、そんな思いが心の中にあった。そんなこと気にしなきゃいいのに、自分を自分以上の自分に見せたいといつも思ってた。

 

つまり、自分を装ってたんだね。自分の意見がないから、自分に力がないから、自分の容姿や振舞いに自信がないから、自分を装うしかなくて、それがバレないように緊張する。自分の体は自分の心をよくわかっている。心が嘘をついてる時、体は敏感に反応する。ただそれだけのことだと思う。

 

自分は自分でしかない、いまの自分以上の自分になりたいから努力をする、それでもまだ足りなければもっと努力をするしかない。だから人前で話すときだって、いまの自分が思っていることや考えていることを話せばいい、その内容が物足りないのであれば努力不足、準備不足、自分の力不足、それを受け入れるだけ、だってそれがその時の自分自身なんだから。

 

要はね、必要以上の自分になる必要なんてサラサラないってこと。そのときに必要とされる自分は自分以上でも以下でもないってことだから、そこにいる僕がスゴイ僕かダメな僕かは、もうその時の事実でしかない。もちろんスゴイ僕になりたいから努力するんだろうけど、大事なのはそれを判断するのは他人ではなく自分ってこと。それを理解すれば、緊張すること自体がちゃんちゃらおかしいことだってわかる。

 

これは鈍感になるということでも、諦めるということでもない。今の自分自身を受け入れるということ。でも、これって実はなかなかできなんだよね。最初に言ったとおり、すこしでも良く見せようとしちゃうから。そうではなくて、今の自分は自分でしかないのだから、その自分であり続ける事が大事。これができるのが「大人」だと僕は思う。鷹揚な大人、そういう人になりたいね。

 

実はこのことに気づいてる人ってあまりいない。だから世の中には、常に急いでいたり、焦っていたり、緊張していたりする人がたくさんいる、はい僕です。だからね、まずは何ごともゆっくり動くこと、喋ることをおすすめします。時間はたくさんあるんだから。そうすれば見えてくる、何がって、自分自身が。

 

思い出してごらん、子供の頃、まわりにいいた大人は、みんなそういう大人だったでしょ。ようやく、ぼくらの番がやってきたんです。ただそれだけだよ。みんなそのプロセスを歩いてきてるんです、そして早かれ遅かれ大人になるんです。なんかそう考えると楽しいね、立派な大人になると新しい何かが見えるかもしれない。それって、ようやく自分に気づくってことだからね、楽しみでしょうがないね、立派なおとなになりましょーね!

 

幸せは必ずやってくる 〜合言葉はハービバノンノン〜

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ふー、お風呂ってなんでこんなに気持ちいいんだろう。寒い日にたっぷりのお湯に浸かる、至福の瞬間、家のお風呂もサイコーだし、温泉や銭湯だってサイコーだ。それに子供と一緒に入るのって、何か気持ちいいよね、髪の毛や体をを洗ってあげたり、カエルのおもちゃで遊んだり、時には湯船でみかんなんか食べちゃったりしてね。こういうのお多幸な瞬間っていうんだろうね。

 

普段は気がつかないんだけど、こういうお多幸の瞬間に僕らは囲まれて生きている。何気なくいつものようにご飯を食べている時、みんなと一緒にテレビを見て大笑いしている時、今度の週末はどこに行こうかなんて話している時、いつもの日常、いつもの瞬間、実はかけがえのない瞬間だなんて気がつかないで過ごしている。

 

こんなお多幸な瞬間に気がつく時、それは不幸な時かもしれない。なんかうまくいかないことが続いたり、何かに打ちのめされたり、ココロが風邪をひいいた時、今まで気がつかなかったお多幸な時間に気づく。気づいた時、そんな時間はもう帰ってこないことを知ったりする。正直、こういうことはよくあること、寂しくて、悲しくて、生きるのが嫌になったりする。

 

でもこういうことは誰にでもある、みんなが経験していること。だからそんな時はどうするか、そう、これからのことを考える。これから何をしようか、どんなことをしてやろうか、これからやってくるお多幸な瞬間に思いを馳せる。それでこそ、お多幸な時間を自分のものにできる。

 

そしてこうも思う、かつてのお多幸な瞬間は、誰かが僕に与えてくれたものではないかと。その誰かとは親や恋人や友人、いつも近くにいいるから気がつかない大切な人、そんな人に支えられて僕らは生きている。だから、今度は僕の番。みんなにしてもらったことを僕がする番。親に対して、恋人に対して、友人に対して、そして自分の子供に対して。それが生きる、生かされるということ。

 

お多幸な時間をたくさんもらった人は、これからもたくさんのお多幸な時間を作れるはず、そういう決まりなんだ。そしてそれが僕らの責任なんだと思う。僕らの未来は僕らのもの、お多幸な未来は僕らが作るもの、必ずやってくる未来、ワクワク感しかないよね。

 

ふー、お風呂に浸かってたら、なぜだかそんなことを考えちゃった。気持ちの良い至福な瞬間、そしてこれからやってくる至福な時間に顔がにやけちゃう。そしてカラダがふやけちゃう、長湯するとのぼせちゃうよね。だからこんな歌を口ずさむ。「ババンバ、バンバンバン」、心の底から楽しくなる、サイコーの歌だよね。

 

湯気が天井から僕の頬にぽたりと垂れる。そんな天井を見てつぶやいてみる、「ハービバノンノン」。この言葉、もしかしたら幸せのおまじないかもしれない。きっとそうだ、そんなこと思って湯船に潜る、ブクブクブク、プハーッ、さあ、みんなで大きな声でいってみよう、「ハービバノンノ」、きっと幸せになれる、そんなおまじない。僕らは幸せだ!

 

諦めないってこういうことか 〜井上尚弥もすごいけど、拓真にしびれた〜

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昨日のボクシングWBSS勝戦、ノニト・ドネア対井上尚弥、すごい試合でしたね。計量で二人が顔を合わせたときから、いつになく井上選手が緊張してるなと思ったけど(なんか頬がこわばってました)、ノニト・ドネアもすでに36歳、残念ながら全盛期は過ぎており、いつものように早い回でノックアウトするんだろうなと予想していました。

 

ところががどっこい、序盤から井上選手はボディを打たれるなど、らしくない雰囲気が散見され、早くも2回にまぶたを切って流血、9回にはあわやノックアウト寸前というところまでいっちゃいました。井上選手がクリンチで逃げる姿を見て、負けたと思っちゃったもんね(浅はかですみません)。井上選手もらしくなかったんだけど、それ以上にドネアのパンチがキレキレでした。正直始まる前は、ドネアのラストマッチになるんじゃないかと思ってましたけど、まったくのごめんなさいです。

 

それでもそんな劣勢を冷静に跳ね返してしまうのが、モンスター井上尚弥。9回のダウン寸前の状況から盛り返し、11回には強烈なボディーでドネアを悶絶、ノックアウトこそなりませんでしたが、ここで勝負は決まりました。この試合、井上選手はボディをあまり打たなかったんですよね、ドネアのカウンターパンチを警戒してのことかもしれませんが、最後の最後でこのパンチ、実は作戦だったのではないかと思っちゃいました。一体どんな精神構造をしているんでしょう。怖すぎます。

 

それにしても、ボクシングってスゴイスポーツだよね。だって相手と殴り合っちゃうんだから、実際、スポーツと言っていいんだろうかと思っちゃいます。そして勝った者と負けたものが冷酷すぎるほど徹底的に区分されます。残酷といってもいいくらい。だから自分の全てをなげうって勝ちたいと思う、相手に勝つというよりも自分に勝つということなんだろうね。

 

減量して、節制して、禁欲して、我慢して、我慢して、その結果得られるもが勝利でありプライド。ファイトマネーだって世界戦以外はしれている。だからこそ、陳腐な言い方ですが男のロマンと言うか、ハングリー精神というか、本能をくすぐるんですよね。そんな戦う二人の姿は純粋にカッコいいと思います。

 

だから、ロッキーだって、あしたのジョーだって、リングにかけろだって、あれだけ僕らのココロを揺さぶるのです。道具も何も使わない、自分の体だけで戦う姿は僕らの原始的な何か、心の奥にあるものを震わせるのだと思います。なんだろうね、これって。

 

そして、ドネア選手と井上選手の試合も凄かったのですが、実は僕、それ以上に前座で行われた井上尚弥選手の弟、拓真選手の試合にしびれました。拓真選手は4回にダウン、これは相手のウーバーリ選手と結構実力差があるなと思ったのですが、それでも諦めない拓真選手の姿に感動しました。そして拓真選手、パンチ力や技術力では正直、尚弥選手に劣ると思いますが、そのクイックネスさ、敏捷性はピカイチと思いました。そして、何度打たれても繰り返し繰り返し向かっていく拓真選手の精神力、愚直な凄さにしびれました。

 

そして最終回、あわやノックアウトしちゃうんじゃないかと思っちゃたもんね。思わず声が出ちゃった、あともう1ラウンドあったらわからなかったんではないでしょうか。いずれにしても僕にとっては、尚弥選手の試合以上にサイコーの試合でした。ボクシングの素晴らしさ、最後の最後まで諦めない、その尊さを拓真選手は教えてくれた、見せてくれたと思います。

 

たぶん拓真選手なりに、スーパースターの兄に負けたくないという強い思いが、今回の戦いにも現れていたんだと思います。あのクイックネスとこの愚直なまでの諦めないという強い心があれば、これからも尚弥選手とは違った素晴らしい試合を見せてくれると思います。なんか髪の毛を緑になんか染めてて変なのって思いましたが、これからは全面的に応援しちゃいます。お兄さんと一緒じゃなくていいんです、拓真選手ならではの素晴らしいボクシングをこれからも見せてください!と思います。

 

ということで、やっぱりボクシングっていいなーとあらためて思い感じた次第です。やり尽くす、諦めない、徹底的に諦めない、その姿は見ているものを感動させるんだと思います。実はこれって何ごとも一緒なんですよね、だから僕もそんな自分になれるよう、彼らのようなスーパースターにはなれなくても、何ごとにも諦めずに取り組んでいける自分になりたいと思いました。そんなふうに思わせる素晴らしい試合を見せてくれてありがとう!

 

世の中は無駄でできている 〜無駄のない世の中とは〜

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世の中は無駄でできている、そんなことを言った人がいます。確かにそうだよなー、しなくてもいい仕事、非効率な仕事、いっぱいあるもんね。

 

その最たるものは、やっぱりお役所でしょうか。無駄な道路を作ったり、いらないダムを作ったり、よく言われてますよね。お役所は税金を「集めて」「使う」のが仕事、これってよく考えるとスゴイこと、だって「集める」のは法律で決まってるけど、「使う」のはお役所の人間(政治家も含めて)が決めるんだもん。でも、だからって好き勝手やってるかと言うと、もちろんそんなことはなくて、逆に言うと理屈が通ることにしかお金が使えない。だから無難に仕事をこなすために前例のあることしかしないし、非効率なことも非効率なまま踏襲してしまう。悪循環だよね。

 

それと、わざと非効率を維持している無駄もある、僕はクルマが好きだから「車検」ってどうにかならないのかっていつも思う。だって、今どきのクルマだよ、二年に一回の点検なんて必要ですか?絶対に必要ないっす。それなのに、あーだこーだ言って、このままじゃ車検に通りませんよ、とか言われてお金を払うことになる。もちろん国として税金が必要だからなんだけど、車検を生業としている民間業者のためでもある。要は役所の思惑や無駄に乗っかって、仕事をしている民間企業の無駄ってことですね。

 

こういうのって実はたくさんあって、役所が発注する工事もそうだし、マイナンバーなんかのITシステムだってそうだし、コンサルタントなんかもそう。お役人は理屈さえ通ってしまえば、お金は払ってくれるので、それを食い物にしている人がたくさんいるわけです。特にコンサルはタチが悪いね、お役人の理屈作りを肩代わりしてお金をもらうんだからね、これこそ税金の無駄遣い。

 

こう考えると、お役人が世の中をダメにしているようだけど、実はそれだけじゃない、純粋な民間企業の中にも無駄で非効率な仕事っていっぱいある。みんなも経験あるんじゃない、会社の事業を拡大させる目的で仕事をしてるんじゃなくて、自分の保身や出世のために仕事をしている人。どこの会社にもいるよね、こういう人。でも、世の中そんなに甘くなくて、こういう人や組織が大勢の会社は、早晩、市場から見放されちゃう。だって会社の事業のために仕事してないんだから、そりゃそう、特に最近はその傾向が顕著になっている。

 

でもね、こういう人たちも問題なんだけど、一番問題なのは「趣味で仕事をしている人達」。決してサボっているわけではなくて(サボってたらクビになるだけだもんね)一生懸命仕事をしてるんだけど、その方向性というか同義付けが自分のためっていうか、自分が楽しければいいと考える人たち。もちろん、それが会社の事業に即していればいいんだけど、そうじゃなくて、自分が意欲を持って取り組める仕事を限定してしまう人たちがいる。実はこういうひと、どこの会社にもたくさんいます。こういう人たちの向かう先、ゴールテープのある場所をきちんと指し示すのが本来の上司の役割なんでしょうが、その役割が担えていないというか、そもそもわかっていない人、多いです。

 

欧米から言わせると、成果主義じゃないからなんだよね、と言うことになる。でも、こういう色んな人たちの取り組む方向や内容をすり合わせて、ひとつのゴールに向かわせることができたら、それは大きな成果となる。これがかつての日本の企業が得意としていたこと。実はダイバーシティの先駆けだったのではないでしょうか、といったら言いすぎかな、どちらかというとみんなを同じやり方に染めてしまったという言い方のほうが正解なのでしょう。

 

ということで、お役所もそうだし、お役所を食い物にしている民間企業もそうだし、民間企業の中でも、無駄で非効率な仕事ってたくさんあると思う。だけど、ここで思います。世の中から無駄がなくなったらどうなってしまうんでしょうって。

 

なんか、ちょっと怖いよね。少子高齢化、働き手がドンドン減っていって、世の中は人手不足と言われているけど、そもそも無駄や非効率な仕事がなくなれば、人が余っちゃうんじゃないのって思う。そうなるとどんな世の中になるのだろう。

 

こんなこと考えると、無駄って必要なことなのかな、とも思えてしまう。確かに無駄のない人生なんて、ミルクのないコーヒー、というかコーヒーのないミルク、まあどっちでもいいか、要は余白のない窮屈でがんじがらめな人生なのかもしれない。

 

ミルクもうまい、コーヒーもうまい、でもたまにはコーヒーにミルクも入れたいし、コーヒー牛乳だって飲みたい。無駄や非効率ばっか気にしてると、もっと大事なこと気がつかなくなっちゃうんじゃないかと。きっと無駄も非効率もない世界からはイノベーションって生まれてこないんだと思う。

 

たぶん、良い無駄と悪い無駄があるんだと思う。そこの見極めが大事なんじゃないかな。だから理屈じゃなんだよね、感じること、気づくことが大事なんだと思います。なんか、とりとめなくなっちゃったけど、良い無駄な生活を送りたい、なんて思います。良い無駄って何かっていうと、たぶん「余裕」ってことだと思う。知らず知らずにそんな無駄を行ってる時間が実は幸せなのかもしれないな、あんまり目くじら立てて、あるべき論ばっかり言ってちゃダメってことでもありますよね、そんなこと思う秋の夜長の青い日々なのでした。

 

お多幸なクルマ選び 〜AUDI TT きっと宇宙にも行けたはず〜

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初代のTTを見た時は衝撃的だった。宇宙船?こんな形の車があるの?なんかポルシェ以来の衝撃。

 

なんかね、フェーラーリやらランボルギーニやらマクラーレンやらNSXなんかもスゴイんだけど基本想定内のスーパーカーデザインなんだよね、空力を意識しながら、サイズ感も無視して(ある意味意識して)とにかくスーパーな車に仕立て上げることを生業としている。それはそれでカッコよくてスーパーなデザイン、スーパーな走りを実現しているわけだから全面的に肯定するわけだけど、このAUDI TTは違う。

 

ALPINE A110に通じるところがあるんだけど、普通サイズの車感の中で実現したスーパーなデザイン、そしてこのTTに感じる圧倒的な機械感、こういう車って購買意欲をソソるんですよね。まさに日常の中の非日常、このバランスが大事なんです。

 

話逸れますが、これってすべての商品に対して重要なことだと思います。これがあっての脱コモディティ、人に情感を与えてなんぼだと思います。コモデティな商品はコモディティに徹すれば良い、そうでないのであれば、日常の中に非日常をどうミックスさせるか融合させるかが肝だと思います。そのデザイン力、バランス感覚が僕らの心を刺激し、なにか得ることができると感じさせ、それが多幸感につながるわけです。ものづくりに関わる全ての人はソレを意識してほしいなと思わけです。偉そうなこと言ってすみません。

 

そんなTTですが、内装も洒落ていた、アルミ感をうまく使いながら、グローブみたいな革素材と融合させてスペシャルティな感じを醸し出していた。シフトノブも野球のボールみたいだった。残念だったのは初代はマニュアルしかなかった、なんでだろうね、別にスポーツカーじゃないんだから、もっとスマートに乗らせてほしいなといつも思う。スマートにマニュアルが操れればいいのかもしれませんが、なんかスポーツ性が高い=高性能=マニュアルみたいな意識がある、単純すぎて嫌いです。そう言う意味ではポルシェが実現したDCT、いわゆるマニュアルよりも優れたオートマは革命的だったと思います。ありがとう、ポルシェ!ワーゲングループ!

 

そんなTT、お値段も390万円からと宇宙船にとしては革命的に安い、そりゃ中身はフォルクスワーゲングループのFF車なんだからそうでしょうけど、このデザインだけでお買い得感満点だと思います。ただね・・・狭いのですよ、むちゃくちゃ狭いの。この外観と引き換えにこの狭い空間を許容するのであれば買いだと思いますが、やはりアバンギャルドと快適性は同居することができないのだろうか、閉所恐怖症、空有感恐怖症的な私としては許容できない狭さでした。これはフォルクスワーゲンシロッコでも感じたところです。そういう意味だとALPAINE A110はすごいよな、まあ二人乗りだけどね、それでもまだまだやれることは多そうです。自動車デザイナーの皆さん頑張ってください。

 

こんな宇宙船TTですが、いつの間にやらモデルチェンジを繰り替えし、今や三代目となりました。そのデザインはというと・・・?まあ正常進化しているわけですが、フツーの車になってしまっているんです。なんでこの車モデルチェンジする必要があるのかね?って感じ。

 

なんかサラリーマン的な発想で、もうデビューから何年立ったからモデルチェンジしなきゃ、デザインはこの部分をもっとモダンにしよう、空力を改善しよう、安全性も向上させなきゃ、密閉感が嫌だという人もいたから開放感を得られるデザインを取り入れよう、なんてことがきっと企画書に書かれて、マーケティング調査の結果も踏まえて、ゴーサインが出されているんでしょうね。もうカローラのモデルチェンジと全く一緒。かつての宇宙船もこうやって普通の車になり果てるのでした。

 

そもそもTTはTTなんだから、AUDIアバンギャルドの象徴として、全く違うモデルとして進化させてほしいもんです。そうなると、次のTTはどうなるのかな、なんて期待できるし楽しいよね。フォルクスワーゲンなんてたくさん車売っているんだから、そういうチャレンジングな試みがあってもいいと思うんですけどね。

 

優れた工業製品を見た瞬間のワクワク感ったらないよね、お多幸感が止まらない。そんなコンセプトでものづくりを進めてくれる自動車メーカーが増えると楽しいなー、くれぐれもギミックに逃げるんじゃなくてねー、と思い感じる青い日々でしたー。

 

自転車に乗って 〜電動アシストスポーツという新しい発想〜

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ホソマッチョ、そんな言葉に憧れて、さー今日から筋トレしちゃおっと、なんて思って鉄アレーを買ってくる、あっという間に3日で終了。こんな見事な三日坊主、漫画でも出てこない、我ながらホント飽きっぽいと思う。

 

パキパキに割れた腹筋は憧れるけど、もとから運動神経だって良くないし、お腹もそれなり、まったくメリハリついてない。それに、筋トレって辛いじゃないですか、面倒くさいし、やっぱ、きついことは続かない。ダイエットなんかは結構続くんだけどね、一度決めたら徹底して昼は素うどんしか食べないとか、夜は御飯食べないとかは平気でできる。要するに我慢はできるんだけど、つらい運動はダメなんです。だから僕にとって運動といえばもっぱら散歩くらい。散歩は楽しいし、まったくつらくないもんね。

 

そんなんで、最近はよく散歩をしているんだけど、もう少し遠くまで行ってみたいなと思う時がある。そんな時うってつけなのが自転車、ということで、なんだか急に自転車に乗りたくなった。もちろん、自転車でも十分からだは鍛えられるはず。でも、家にあるのはフツーのママチャリ、もう少し形から入りたいなと思い、どんな自転車がいいか考えてみた。

 

最近よく街で見かけるロードレーサー、そうピチピチのウエアを着て走る本格的な人。残念ながら、あそこまで本格的に走るつもりはない、というかできない、キツイでしょ。それに僕はクルマが好きなんだけど、はっきり言ってあの人達、邪魔です。せっかくのドライブで山道なんか走っていると、狭い道でロードレーサーの大群が走ってたりする、もちろん人力なんで、上りなんかノロノロ、抜くに抜けず迷惑この上ありません。せっかくですから自転車専用道を走ってほしいな、特に大群でツーリングするときはそうしてほしいなと思うのでした、すみません。

 

僕が自転車で走りたいなと思うのは、近所であれば川沿いの土手の様な場所。遠出するなら、河口湖や山中湖なんかの湖を周遊するサイクリングコース、人様のご迷惑になることもなく、風光明媚な雰囲気の中、お気楽に乗りたい、そう思うんです。まっ、からだを鍛えると言うよりも散歩の延長線なんですね、すみません。

 

うちの近所には鶴見川があるから、その土手を走りたいな、そして海まで走ってみたいな、そんなこと思います。一度、歩いていってみようと思いましたが、とてもじゃないけど無理でした。だから自転車なら行けるだろうと思ったわけです。でも、歩きであればギブアップすれば電車で帰るとかできるけど、自転車ではそうも行かない。目的地に行くだけではなく、きちんと自分の体力で帰ってこれることが大前提になる。

 

なんてこと考えながら、色々探してみると、あるじゃないですか、いいのが、「電動付き自転車」これです。しかも最近はママチャリタイプだけでなく、色んなタイプが揃っている。その中でも目についたのがこれです、パナソニックのeバイクシリーズ。正式にはe-BIKEスポーツ電動アシスト自転車といいます、オンロードタイプからオフロードタイプまで、しかも結構かっこいい、いつの間に自転車はこんなイノベーションを起こしていたのでしょう。

 

よく考えてみたら、スポーツタイプの自転車だから電動アシストが着いちゃいけないってことはサラサラないわけですよね。健康増進や、自分の限界を超えて楽しみたいときなんかに電動アシスト機能を使うという至極まっとうな話だと思います。なんてったってお気楽に体を動かせる、横着者の僕にピッタリです。クルマのエンジンだってターボやらスーパーチャージャーやらあるし、いまでは日産のe-POWERのようにモーターで電動アシストする機能だってあるわけだ、それと一緒だね。

 

で、お値段表を見てみると、あら立派。みんなほぼ10万円以上、一番安いオンロードタイプの「ベロスター」というやつで95,000円、オフロードタイプの「XM-D2」というやつはナント600,000円。うーん、なかなかなもんですね。やっぱり乗るならオンロードタイプかな、それにしてもカッコいい、所有欲をそそるデザインと、この電動アシストという機能、素晴らしい。

 

さて、どうしようかなと考えながら、やっぱりこうやって考えてる時間が楽しくて愛おしくてお多幸なんだよなーとあらためて思ったりして。買ったらどこ行こうかな、どんな服着て乗ろうかな、なんてね。ということで、妄想、検討は続くのでした。I want to ride my bicycle、頭の中にそんな歌声が聞こえてきます、めざせチョイマッチョ。

 

なんで、こんなに飽きっぽいの? 〜もっと熱中できる人間になりたい〜

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プラモデル、僕は完成したことがない。子供の頃からそう、飽きちゃう、いつも途中で投げ出しちゃう、根気がないんだな。大人になったいまでもそう、面倒くさい話は好きじゃない、適当にやり過ごしちゃう。もちろん大人だからやらなければいけない仕事は最低限する、義務ですからね、でもどちらかというと趣味の部分なのかな、自分が気にいってやり始めたことも、なぜだか途中で急に熱が冷めてしまう。

 

どうしてなんだろうね。ひとつのことに熱中するひと、できるひとを羨ましく思っちゃう。意思を持って、追求する、極める、そんな人達を尊敬します。僕にとっては、プラモデルを完成させることも、ノーベル賞をもらうような研究も一緒、尊敬します。

 

よくテレビなんかで、こだわりを持った人が出てくるけど、スゴイなーと感嘆する。いまもテレビで穂高の山小屋を管理していた宮田八郎さんの話をしていて思わず見入ってしまったんだけど、こういう人は自分はこれをやる、これをやりたい、ていう意志が強いんだろうね。

 

ちなみにこの方は穂高の山に魅せられて大学を中退し、山小屋の管理人となり、52歳で急逝されるまで、毎年7ヶ月間を山小屋で暮らし、登山客を迎えていたそうです。意思の強さもさることながら、これだけ自分がやりたいことに出会えるということもスゴイと思います。

 

でもそういう言い方すると怒られるんだろうね、きっと。出会えたんじゃなくて、自分が見つけたんだと。そういう意味でやはり意思が大切なんだと思います。でもね、僕はそこまで自分が没頭する、したいようなものに出会えたことがないんです。もとい、見つけられたことがなんです。世の人はみんなはそういうものを持っているのかしら。そうだとしたら羨ましい限りです。

 

宮田八郎さんのようにまではなれなくても、それなりにみんな没頭しているものって、あるんだと思う。読書でもいいし、映画でもいいし、楽器を弾くことでもいいし、絵を描くことでもいいし、ボランティアでもいいし、登山でもいいし、勉強でもいいし、アイドルの追っかけでもいいし、オタクでもいいし、女装でもいいし、なんだっていいんだと思う。

 

でもこうも思うんです。見つかっても見つからなくても良いんじゃないかなって。だって見つけること、それ自体が楽しいことじゃないかと思うから。そう、見つけることに没頭するんです、これって、楽しいことだと思いませんか、これから見つけていく楽しさがあるってことだもん。

 

別にその道を極めるために何十年もキャリアをこなさなきゃいけない、一人前になれないということだってないと思う。そこまで、こだわりがなくたって良いんだと思う、ウンチクいえなくても良いんです。自分のココロに響けば良いと思うから。これが大事だよね。人に示すためじゃないんだもの、自分のためなんだもん。

 

だから、このブログ書きながら探してみる、青い日々ね。ブログ書くのだってそう、飽きっぽい僕がこんなにひとつのこと続けたことって実はないんだよね。そういう意味では、自分が何をしたいのか、それを探すことに僕が没頭していることなのかもしれない。いいよね、楽しいもん。

 

探しものはなんですか、見つけにくいものですか、それより僕と踊りませんか、陽水さんも言ってました。探し続ける日々、そういうのだってきっと楽しいはずです。小さなことでも、みんなに笑われてしまうようなことでも良いと思うんだ、だって自分が楽しいんだもん。だからみんなも一緒に探しましょう、そしてブラボーな日々を送りましょう!ね!!

 

なんで、いつも焦ってるの? 〜もっと鷹揚な人間になりたい〜

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休日の朝は6時30分に起きて、だいたい30分くらい家の近くを散歩する。最初にセブンイレブンによってヨーグルトや新聞を買うんだけど、行く道すがら気がついた。もの凄く、せわしく自分が歩いていることに、なんだか知らないけど、セブンイレブンに早くいかなきゃと思ってる。なに急いでるんだろう?急ぐ必要なんてまったく無いのに。これ、昨日までの仕事モードが抜けてないってことに気がつきました。

 

まったく我ながら笑っちゃいました。普段の仕事だって、決っしてせわしくしているわけではないと思うんだけど、知らないうちに焦ってるんだね、急がなきゃ、少しでも早く仕事しなきゃ、ってね。あ~あ、もっと鷹揚に生きたいもんです、セカセカしてる大人なんて余裕なくてかっこ悪いもんね、反省です。

 

仕事はプロセスも大事だけどアウトプットにこだわることがもっと大事。だから自分のすべきことがわかっていれば、淡々とそれを実行するだけ、効率を考えて計画的に実行するのみ。そのために急ぐならまだしも、いつもいつもせわしなく行動しているのは本来の趣旨と異なる。9時から5時まで会社にいなければいけない、いることが大事と幻想をいだいているのと同じで、ただ単にせわしなく急ぐことはまったく意味がないし、責任を履き違えてる。なんか知らないけどただ忙しい忙しいと言ってるのと同じだ。そんな人いるよね。はい、僕です。

 

要は自信がないんだよね。自分の行動、していることに。なんか知らないけど、早くしなきゃ、みんなに遅れないようにしなきゃ、みたいな漠然とした雰囲気に飲み込まれているんだ。自分がやるべきことがわかっていれば、そんなこと思う必要はないのに。

 

問題はもっとあって、それが仕事だけじゃなくて、プライベートも同じだってこと。せっかくの休み、充実しなきゃ、なんか意味あることしなきゃ、早くしなきゃ、早くしなきゃってね。まったく、人間ができていない。はい、僕です。

 

時間は限られている。だからその中で、やりたいことをしなきゃいけないんだけど、やりたいことが明らかになってますかという話なんだと思う。明らかになっていれば、あとは優先順位をつけて、計画建てるだけ、それを実行すればいいだけ。それがないのにただ焦り急ぐのは、自分がないのと一緒です。

 

じゃあどうしたらいいんだろうと思って考えた。やること一生懸命考える、そうじゃなくて、何もしない時間を作る、そういうことに気がついた。たまには座禅でも組んで静かに瞑想してたほうがいいんじゃないかって。

 

だから僕は決めたんだ、先週の週末、土曜日は何もしない一日にする。なにも計画立てないで、その時感じたこと、思ったことだけをする。さてさて、やってみたら何が起きたと思いますか?

 

なんかね、色んなこと考えちゃった、思いついちゃった。おかしいね、いつもそういうことがしたいから、しなくちゃいけないと焦ってばかりいたのに。そうかそうか、そうなのか、僕は知ってしまった。そしてなんで焦ってるのか、わかった。時間がないことに焦ってるんだ、有効に時間を使わなければいけないと思って焦ってる。

 

だから時間を作れば良いんだよ、いっぱいあるんだから、そしてしたいことすれば良いんだよ。いつもじゃないよ、そういう時間を作るんだ、そうすれば、いつのまにか自分のしたいことをするだけの日々になるんだよ。

 

発明だ、発見だ。自分が納得することが大事、それが自分の時間なんだ。これこそ、青い日々、そんなことに気がつきました。明日から取り組もうっと、きっと幸せでお多幸な日々が送れるはず、楽しんじゃおうねー!