「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

歳をとるということ 〜何に気づき、何を知るのか〜

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若いころにはわからなかったことや、気づかなかったことがわかってくるようになる。大人な大人になれない子供な大人の僕でも、そんなことを思う時がある。相手になんか言われてもただ怒るのではなく、相手がなぜあんなことを言ったのか、言わざるを得なかったのかを考えたり、そこに思いもよせずただただ反応してしてしまった自分の至らなさを感じたりする時がある。

 

若い時ならただ怒り狂うだけ、自分が正しい、それなのになんであいつはあんなことをいうんだと周りに言い散らすだけ。そんなときは決まってたしなめる大人が近くにいた。それってとても恵まれていることなんだって今ごろになって気づいたりもする。いま、その役割は自分なんだよ、そんなことをしらっと思ったりする。

 

話は飛ぶのだけど、江戸時代の平均寿命は4~50歳くらいだったらしい。幼い子供がなくなる割合が多かったことも起因しているので、当然もっと長く生きた人もたくさんいるだろうけど、現代と比べると寿命は著しく短いのは間違いないだろう。

 

だから40歳くらいでようやく大人な考えができるようになった時には、ハイご臨終というケースも多かったのではないだろうか。今の自分に当てはめると、もったいないなと思う。だって僕自身も最近になってわかってきたことが多いから。死ぬことや生きることについてもよく考えるようになったし、自分が生きている意味や、この世界が存在している意味、そして自然の大切さ、気づき感じることのすばらしさ、もちろん自分の至らなさもね。とにかくいろんなことに気づきだした。

 

これって僕が幼いだけなのかしらね。確かにメジャーリーガーの大谷翔平選手や、Jリーグの選手のインタビューなんか聞くと、おっとなだなーって思うもんね。自分より年下なんて思えない。まあ、そういう人は一部の特殊な人なのかもしれないけどね。

 

歳をとることにはどんな意味があるのだろうか。

 

自分にできることできないことがわかってくる。自分だけでなく、人にやさしくできるようになる。客観性が高まる。鈍感になる。そんなとこだろうか。もちろんその背景にはいろんな知見を蓄えたことや経験したことによることも大きいだろう。

 

僕にとって歳をとることの意味は何だろうか、そんなことを思うけど、正直よくわからない。若くして成功したスポーツ選手や実業家の人たちは、もうとっくにわかっているのかもしれない。もしかしたらわかってるふりをしてるのかもしれない、そうしないと生き残れない世界に暮らしている人たちだから。

 

人は誰もが平等に歳をとる。平等に時間を与えられているからだ。何年生きられるかはその人次第。であるならば、まだ生きている自分はもっともっとやるべきこと、やらなきゃいけないことがたくさんあるはずだ。江戸時代に生きた人たちよりも間違いなくその機会は多いわけだ。

 

時間は平等だけど、歳をとることができるか否かは人それぞれ。歳をとって何を見つけるか見つけられるかは自分次第。僕は何を見つけることができるのか。そんなこと思いながら年の瀬を迎えようとしている。来年はどんな年になるか、そうじゃなくてどんな年にしようか、そう思わなきゃいけないよね。僕らの未来は僕らでできている、いい年にしようじゃありませんか、良いお年を!