「青い日々」

多幸感あふれる、幸せな生活

奇妙な僕ら ~気づくか気づかないか~

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自分の手をじっと見つめる、まじまじと見つめる。手のひらがあって、その先に指が5本、その指で鉛筆を持ったり、箸を持ったり、何かをつかんだり、離したり、遠くに投げたり、それはそれは器用に使いこなす。そんな僕の手をじっと見る。

 

奇妙な形をしているよな、あらためてそう思う。不幸にも指が数本少なく生まれてきた人や、事故で指を失ってしまった人もいるだろう、その人たちの手を見て普通と違うな、そう思ってしまうけど、きっとそれは気のせいだ。僕らの手はそもそも奇妙なのだ、僕らが「慣れ」てしまっただけなんだと思う。

 

なんでもそう、僕らは異質なものをいつの間にか受け入れ、そして「慣れ」てしまう。顔だってそうだ、頭に毛が生えていて、さらに目の上には眉毛がある。一体この眉毛は何のために存在するのだろうか。不思議なもんだ。僕らはこの顔についても美人だ、美男子だ、ブスだ不細工だと感覚的に決めつける。そもそもが奇妙な形をしていることに気がつかない。

 

たまに電車の中や、コンサートなどで限られた空間に人が密集しているさまに異質感を感じることがある。この元来の奇妙な顔が集合している状況を見てなんか違和感、そして得体の知れない恐怖感を感じる時がある。普段僕らが「慣れ」親しんだ顔、それがごまかしながら「慣れ」てきたものだったことに心の奥底で気づく瞬間が誰にもある。僕らは急いでその感覚を深いところに押し込み、何事もなかったかのように平然といつもの自分を装う。

 

口づけ、キス、なんで行うんだろうね、好きなもの同士の愛情表現に決まってるじゃないかといわれそうだけど、誰が発明したんだろうね。原始人も行っていたのかな、きっと誰かが発明したんだろうね。最初はきっと違和感がありまくりだったと思うよ、汚いってね。それが愛し合っているもの同士の自然な行為とされるにしたがって、汚いと感じていた違和感はどこか深いところに押し込められて、世の中の常識にならされていく。そうやって僕らは生きてきたんだと思う。

 

なんか思うんだ。僕らはもっと気づき、感じなきゃいけないんじゃないかってね。僕らは自分が困らないように自分をごまかすのが得意だから、何でもすぐ「慣れ」ちゃう。困ったことや嫌なことがあっても、すぐにいいように解釈して自分をごまかす、肯定する。きっとそうしないと生きてこれなかったんだろうね。でも僕らは、生きやすい時代に生きている。猛獣に襲われるわけでもないし、衣食住に困ることだってない。だったらもう少し、「慣れ」や「ごまかし」から距離を置いてもいいんではないだろうか。

 

自然に生きる、そのためには自然を感じる。おかしいものをおかしいと感じ、もっとこうすべき、こうあるべきなんじゃないかと思うことに取り組んでみる。そんなことが必要なんじゃないかと思う。きっとそれが「個性」につながるんだと思う。もちろん、非常識なことや、法に触れるようなことをしろってことじゃない、僕らは社会の一員として、何不自由ない生活を送っているのだから、その営みの中で、気づき感じることにもっと敏感になればいいということだ。

 

それができると、世な中は変わってくんじゃないだろうか、もっともっと良くなっていくんじゃないだろうか。僕らは奇妙な自分、慣れてごまかしている自分に気づくべきだ。そしてそれを受け入れたうえで、何をすべきかもっと気づき感じるべきだ。そうすればお多幸な人生が送れるんじゃないか。寒い寒い冬、ストーブをつけたあったかい部屋の中でそんなことを考えていた。

 

 「紅葉」

 

 寒くなり

 一斉に色づき始める

 紅葉

 

 なぜ

 赤や黄に染まるのか

 不思議だ

 

 あんなに青々としていた葉が

 一斉に色づく

 その姿は美しい

 

 目的は何なのか

 目立ちたいのか

 目立ってどうするというのか

 

 色づくと

 色気づく

 似ているけどぜんぜん違う

 

 でも

 一緒なのかも

 色気づく木の葉

 

 僕を見て

 私を見て

 キレイでしょう

 

 他の誰よりも

 世界で一番

 この一瞬を生きている

 

 生き抜いた印

 美しさ

 自分の存在

 

 唯一のもの

 だから

 愛してほしい

 

 最後の瞬間

 色気づく木の葉は

 おしまいの合図であり

 

 再生の合図

 また生まれてくる

 だからまた愛して

 

 最後の瞬間

 ようやく分かる

 愛すること

 

 それが色気づく

 木の葉

 美しさ

 

 僕らも一緒かもしれない

 最後の瞬間

 僕はどう色気づくのだろうか