「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

諦めか、鈍感力の向上か、それでも日々は進む

 

若いころね、良く思った。僕は何だってできる、本気さえ出せば、どんなことだってできる。やろうと思えば、いつでも何でもできるんだ、本気でそう思っていた。

 

そんなこと思ってから数十年、フツーの生活を送っている僕がいる。それでもココロの奥でこう思っている僕がいる、本気出せば、テレビに出ているあの人なんかよりもスゴイことができるはず。でもね、最近わかってきたこともある。

 

僕は頭もそんなによくないし、根気もない、喋るのだって上手じゃない、どちらかと言えば口下手な方。というより、人に伝える何かがない、足りない。そんなことがわかってきた。

 

それでも、何かに気づく、気づける自分でいたいし、実際、自分なりに気づいてきたものもあると思っている。それを表現したくて、こんな雑文を書いているのかも知れない。

 

そして、そんな僕は自己嫌悪に陥ってるのかというと、そんなこともない。そんな自分でもいいじゃない、そんなことを思う自分がいる。

 

これってあきらめの境地ってやつなのかな。自分で自分を慰める、正当化させる、そんなことなんだろうか。たぶん半分そうで、半分そうでない。

 

なんかね、自分は自分なんだから、そんな自分でいいんだ、そんなふうに自分のことを肯定させる自分がいる。別に人より優れた自分になる必要なんていない、自分は自分なんだから、こんな自分でしかないかもしれないけれど、こんな自分でいいじゃない。そんなところだ。

 

よく考えたら、常に自分はこんなことを思って、考えて生きてきているような気がする。人より優れた自分でありたい、そんなこと思いながら、人と比べてどうすんの、自分は自分でしかないんだよ、そんな達観した自分がいる。

 

さてさて、僕はあきらめた自分になっているのだろうか。それとも鈍感力が歳とともに向上中なのだろうか。わからない、わからないけど、自分に褒められたい自分になりたいと思っている自分がいる。

 

そうね、自分は自分でしかないんだよね。いろいろ考えて気づいたことがある。

 

何だってできるとかっていうのは、他人と比べて、どうこうできる、どうこうしたいってこと。

 

そんなの意味ないってことがようやくわかった。何ごとも自分なんだよね。こんな当たり前のこと、どうして今ごろ気づくんだろう。

 

でもそういうことかもしれない、それが人生、それが歳をとるってことなのかもしれない。

 

あーあ、ようやくわかった、でもようやくわかった先、これからどうしていったらいいんだろうね。それがわからないから人生、それがわかる時、僕はどうなっているんだろう。

 

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