「青い日々」

50歳からの多幸感あふれる、幸せな生活

感情

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スノーボード平野歩夢さんが金メダルを獲得した。

 

スタートを切るその瞬間、テレビはサブチャンネルの切り替え画面に。
巷でも話題のようだ、ご多分に漏れず我が家も一緒。
なんとか切り替えた時はすでに遅し、世紀の瞬間を見逃した。
一緒に見ていた妻もおかんむりだ。

 

しばらくしてツイッターを見ると、サブチャンネルがトレンド入りしていた。
おなじ思いをした人がたくさんいたらしい。
買い物から帰ってきた妻にも教えてあげた、ネットでサブチャンネルが話題になっている。
それを聞いた妻は言う。
「サブチャンネル?なんのこと?」

 

なるほど、つまらないことは忘れるにつきる。
そんなことにこだわっていて何になる。
素直に平野歩夢さんの金メダルに感動すればいい。

 

金メダルが決まった時の平野歩夢さんのガッツポーズ。
普段はあまりしない、この時は自然と出た。
インタビューでそう言っていた。
それだけ自分自身が納得する滑りだったのだろう。
二回目で高得点が出なかったことに対する思いもあったに違いない。

 

僕らは自分の感情を隠しがちだ。
嬉しくても悲しくても、常に人目を気にしている。
感動なんてしていない、普通のこと、いつものこと、たいしたことない。
そんなふうに気持ちを押し殺す。
いったい、なんのためにそんなことをするのだろう。

 

自分の感情を自然に表現できる人は素敵だ。
ウソ偽りのない自分の気持ち。
そんなことができる人になりたい。
そんな何かができる自分になりたい。

 

金メダルみたいな特別なことじゃなくていい。
些細なことでいい。
そんな日常を送りたい。

 

そんなことを思った。

 

暇つぶしの人生

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最近、酒の量が増えている。

 

遅くとも夕方の6時には仕事を終える。
テレワークが日常となったから、1時間半の通勤タイムが不要になった。
夕食までの一時間、ひとり気ままに酒を飲む。

 

まずはビール。
つまみは冷凍の枝豆をレンジでチンしたもの。
足りなければ一口サイズのベビースター
僕は手が汚れる食べ物は嫌いだ。

 

そのあとワインをチビチビ飲む。
妻がどこかで買ってくる安いワイン。
暑い日は氷を入れて飲むこともある。
かち割ワイン、意外と飲みやすい、何より飲み過ぎなくていい。

 

スパークリングワインを飲む時もある。
ちょっとココロに余裕がある時。
シュワシュワとした泡を部屋の照明に透かしながら飲む。
夏であればまだ残る陽に透かして見る、最高だ。

 

最近は日本酒も飲む。
元々酒は強い方ではないから、日本酒は避けてきた。
それでも最近は旨いと思うようになり、よく飲む
ワインより複雑に整えられたその味。
歳と共に味覚は変わるのだろうか、それとも鈍感になり新たな刺激を求めだすのだろうか。

 

酒屋であれやこれやと酒を選ぶのは楽しい。
最近飲んでうまかったのは「山本」という山形の地酒。
限定の生酒だったが、透明な飲み心地のその酒は新鮮だった。
きれいな飲み心地の中に日本酒の香りがうまく溶け込んでいる。
強い酒が苦手な僕にはあっていた。

 

こうやって自分に合う酒を探し、晩酌する時間は何ごとにも代えがたい。
ちなみに僕は「限定品」に弱い。
ついつい早く買わなきゃ、いま買わなきゃ、そう思ってしまう。
まったくお安い性格だ、我ながらそう思う。
だから僕は騙されやすいのだろう、どうでもいいこと。

 

こうして今日も酒を飲む。
僕にとって酒を飲む時間まで、単なる暇つぶしでしかない。
仕事でもプライベートでも一緒。
早く夕方がやってこないかな。
そんな毎日、そんな人生を送っている。

 

誰かが言ってたっけ、人生は暇つぶし。
案外悪くないな、そんなこと思うのは歳をとったからだろうか。

 

羨ましいだろ。
誰に言うでもなく、ひとり呟いてみる。

自分勝手

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先月、久しぶりに雪が降った。
やはり東京で降る雪は珍しい。
しばらくの間、窓の外を見続けてしまった。
まあ、僕が暇なだけのこと。

 

雪だけじゃなくて、雨の日もずっと外を見続けてしまう。
何が面白いのかって?
いやいや、こんな面白いことないと思う。
空から水が降ってくる。
しかも、ドバっとじゃなくてサラサラとシトシトと。
よく出来たもの。
こんな不思議な光景、見逃しちゃいけない。
僕はいつもそんなことを考えている。

 

だからなのだろう、いつも大事なことに気がつかない。
自分のことばかり考えている、そんなことを人から言われる。
僕は自分が思ったこと、感じたことを考えているだけ。
それなのにみんなは僕のことを「自分勝手」と呼ぶ。

 

でもその通り、僕は「自分勝手」な人間。
だって自分は自分でしかないのだもの。
生きているのも自分でしかない。
ある意味「自分勝手」であることは当たり前。
自然な人間の姿だと思う。

 

かといって、みんながみんな、自分勝手では生きていけない。
だから、人を思いやり、みんなが一緒に生きていく社会が必要になる。
その中で、同じ価値観を持ち、社会の一員となることが求められる。
「自分勝手」ではいけない、子供の頃からそう教え込まれる。

 

いつしか人は、自分を思いやることより他人を思いやることを優先してしまう。
そして、自分がそうであるように、相手も自分に対してそうであって欲しいと思ってしまう。
そんな自分は、自分が他人にどう思われているか、常に考えるようになる。
いつの間にか、自分の評価を相手に求めてしまう。
そんな自分は、そんな誰かの奴隷となってしまう。

 

まったく困ったもの。
「自分勝手」で自然な自分でいたい自分。
それじゃ生きられないから、相手を思いやる自分。
いつしか、自分も思いやられることを求める自分。
自分が大切だから、自分が一番でありたいと思う自分。
そんな自分の評価を求め、自分が自分でなくなる自分。

 

面白いね。
でもよくわかった。
結局すべて、「自分勝手」な自分が原因だということ。

 

僕らは「自分勝手」な生き物。
だから「自分勝手」でいればいい。
自分を思いやるのも、相手を思いやるのも、結局は自分のため。
全ては「自分勝手」な自分のため。
幸いなことにそれでも生きていける世の中に僕らはいる。
恵まれた世の中。
だったら、「自分勝手」な自分でいたいじゃないか。
誰にも属さない、誰のものでもない自分。

 

そのためにすべきこと。
自分で自分のことを考えること。
自分で自分を制御できること。
だから僕はこんな雑文を書いているのかもしれない。
そうしないと「自分勝手」な自分を忘れてしまいそうだから。

 

ああ、今日も楽しい一日だった。
青い空でも見ながら、ビールでも飲もう。
明日も楽しい一日がやってくるに違いない。
「自分勝手」な自分でいられることに乾杯だ。

 

得意なこと

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僕の得意なことは何だろう。
そんなことを考えてみたけれど、これといって思い浮かばない。

 

どちらかというとダメな自分、そんな自分ならいくらでも浮かんでくる。

 

自分勝手
飽きっぽい
ぐうたら
自意識過剰
人見知り

 

やめよう。
朝から気が滅入る。

 

でもこんな僕だと自覚しているからこそ、自分の得意なことも探してみる。

 

真面目
言われたことはキチンとやる
人に気を使う
相手が喜ぶことをする
責任感が強い

 

我ながらつまらない自分。
人にうまく使われるタイプ、自分でもそう思う。

 

でもだからこそ、こんな自分から脱皮したい、
いつもそんなことを考えている。

 

さらに考える。
もっと自分が得意なことはないのか。
そして、それを活かせることで新しい自分に生まれ変われないものだろうか。

 

ひとつ思いついた。


僕はよく「妄想」する、いつも気がつけばモーソーしている。
あんなことやこんなこと、こんなことが起こればいい。
寝る前や電車の中、暇なときはそんなことばかりを考えている。

 

出張先で突然の大雨、その場にいた素敵な女性と出会う自分
会社を辞め、有名バンドの一員としてテレビに出演する自分
雷に打たれ天才になり、シンガーソングライターになる自分
自分の絵の展覧会を各地で行い、愛車で日本中を駆け巡る自分
線路に落ちた子供を間一髪で助け、ヒーローになる自分

 

我ながら恥ずかしくなる。
でも、こんなモーソーをいつも考えている。
そんな時間は僕だけのものだから。

 

そうだ、これを職業にすればいいのだ。
僕の職業はモーソー家です。
いつか、そう言える日が来ると言い。

 

新しい職業の発見。

 

本気でそんなことを思っている。
こんな50代もいる、みんなも自信を持ってほしい。

 

人生は難しい

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僕は飛行機がキライだ、正確に言うと嫌いだった。
狭い空間に閉じ込められているのがとにかく苦手だった。
それなのになぜか歳をとるごとにそんな恐怖心はなくなり、今では何の問題もない。
窓の外から地上を見下ろし、ひとりはしゃいでいるくらい。
こうして人は歳をとると色んなことに鈍感になる。
世の中に適合し、生きる術を得る、人間というのはよくできたものだ。

 

以前、新幹線に乗った時、指定席のその車両はガラガラだった。
一組の若い女性たちのグループがいた。
五人組の女性は学生だろうか、三人掛けの席を向かい合わせにして楽しそうにおしゃべりをしている。
旅行かな、楽しそうでいいな、そんなことを思う。
自分も買い込んだ雑誌とビールでひとりの時間を満喫しよう。
そう思い座席を確認すると、何と自分が指定された席は、その五人組の一角、つまり向かい合わせになった三人掛けの席のひとつだった。
そんなバカな。。。、そう思い呆然としていると彼女たちのひとりが気づいたようだ、こう言った。
「来ちゃったよ」

 

・・・

 

あの時の彼女たちの自分を見る目、まるで何かしでかしてしまったかのような人を見る目、あの目が忘れられない。
僕はさすがにその席に座ることはできず、車掌に状況を伝え、幸い空いていた別の席に移らせてもらうことができた。
それにしても、あの時の彼女たちのリアクション、その時の空気が忘れられない。
いったいぜんたい、僕が何をしたっていうのだろうか。
この記憶は、いくら歳をとって鈍感になった自分であっても忘れることができない。

 

その何年か後、広島からの帰り、同じように新幹線に乗った時のこと。
夏休みの時期で混んでいたため、貯まっていたポイントでグリーン車に乗った。
グリーン車で過ごすひとりの時間は格別だ。
ビールとおつまみを買い込み自分の席に向かう。
二人掛けの席が向かい合わせになっている。
まさか。。。
やはり自分の席は、三人組が座っていたその向かい合わせの席の一つだった。

 

この時は他に空いている席がなく、その席に座らざるを得なかった。
その席は三人の親子連れだった、家族旅行の帰りだったのかもしれない。
その親子は僕に気を使い、席を元に戻してくれた。
それでもそのあと、ぎこちない時間が続いた。
前の席に座る子供が、僕の隣の席に座る父親だろう人物に時折お菓子などを渡している。
子供がチラチラと僕を見る。

 

・・・

 

いったいぜんたい、どういうことか。JRは僕に恨みでもあるのだろうか。
僕が単についていない奴、そういうことなのだろうか。
この時のことも僕の忘れられない記憶の一つだ。
それにしても思う、僕はあの時どう立ち振る舞えばよかったのだろう。

 

自分の席なのだからと、そこに毅然と座り、自分勝手に過ごすべきなのか。
それとも、気を使い自由席に移り、ほかの空いてる席を探すべきだったのか。
いっそのこと、その親子連れと仲良くなり歓談でもすべきだったのか。
まさか、あの五人組の女性たちにもそんな大人の余裕を見せるべきだったのだろうか。
いま考えても、どうすればよかったのかわからない。

 

歳をとると鈍感力が増す。
気になっていたことが気にならなくなる。
それによって、それまでできなかったことが何の苦痛もなくできるようになる。
そんなこともあるだろう。
でもそんな鈍感力は自分が作り出したものではない。
そう、やはり鈍感力などに頼ってはいけないのだ。
自分で考え、自分で行動して対処する、自分の力で自分に訪れた危機は克服すべきなのだ。
いくつになろうが成長しなければならない。

 

こうやって、おじさんは今日も一人悩む。
人生って難しい。

 

祝・成人(50歳)

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今日は成人の日。
晴れ着やスーツに身を纏った新成人の姿がニュースに映し出される。
そんな姿を見て、自分にもそんな頃があったことを思い出す。
なんてことはない。

 

僕は成人式に行かなかった。
特段の理由があったわけではない。
行っても良かったし、行かなくても良かった。
誰からも誘われなかったから行かなかった、ただそれだけのことだ。

 

友人がいない?
まあそれは正しいのだけど、僕に取っての成人式は、それくらいのものだった。
式に行って、たいして仲が良かったわけでもない友人と会ってもしょうがない。
面倒くさいだけ、同じ理由で同窓会の類にも出席したことはない。

 

昔から人とつるむのは苦手だ。
それでも仕方なく、友人たちと一緒にいた。
自分から進んで一人になることはできなかった。
一人ぼっちの寂しい奴、そう思われたくなかった。

 

我ながら矛盾している。
人と一緒に居たくないのに一人でいるのは嫌。
だから、いつも自分を装ってきた。
いつも誰かの目を気にしてきた。

 

そんな僕も、最近、ようやくそんな自分から卒業できた。
ひとりで何でもできるようになった。
食事だって、旅行だってひとりで行ける。
いや、ひとりの方がいい、気兼ねなく何でも楽しめる。

 

ようやく僕は大人になれたのかもしれない。
祝・成人50歳、そんなところだ。
いったい成人の日から何年経っているのだろう。
でもいい、とにかく僕は大人になれたのだ。

 

みんなが行くから行く、誘われたから行く。
決まりごとだから行く、お祝いだから行く。
喜ばなきゃいけない、楽しまなきゃいけない。
そんな慣習に囚われてはいけない。

 

自分のことは自分で決める。
それが大人だ。
それでこそ成人だ。
これからの時代は、そんな自分が求められる。

 

今日、成人を迎えたすべての人に言いたい。
成人とは与えられるものではない、自分自身でなるものだ。
だから時間をかけてでも、自分の意思で成人になるべきだ。
そうじゃないとこれからの時代は生きられない。

 

さあ、僕も成人になった祝杯をあげようじゃないか。
今日はスパークリングワインにしようか。
ひとりで飲む時間は楽しい。
誰にも気兼ねなく過ごせる至福の時間。

 

これは友人がいない自分への言い訳ではない。
決してない。
事実だけど、それでもいいじゃないか、僕は大人になったのだ。
おめでとう、祝・成人。

 

生まれた時から僕は僕なのか?

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僕は見栄っ張りだ。

 

大学生の頃、友人に誘われて代官山の美容院に行った。
床屋でなく初めての美容院、前に倒れるのではなく後ろに寝転んで髪を洗ってもらえる美容院。
住宅街の一角にある一軒家を改築したお洒落な美容院。
もちろん、看板などない。
芸能人も通うというその美容院は、たいそう居心地が悪かった。

 

環境やサービスが悪いということではない。
自分の理解を超えたお洒落さに僕自身がついていけなかっただけだ。

 

その美容院に行くために雑誌を見ながら服を一式そろえた。
一番カッコいい服を着こんで、髪を切るためだけに横浜から代官山に向かう。
緊張し続けながら、美容師さんに気を使いながら髪を切ってもらう。
こんなだから、耳を二回も切られた。

 

それでも、僕は全然大丈夫だから気にしないで、などい言いながら謝る美容師さんに気を使った。
その時の傷跡は今でも残っている。
結構、血が出たんだよなー。痛かった記憶だけはある。

 

髪型なんかも美容師さんにお任せだった。
色々と言われたような気もするが、わかっている風を装うのに必死だった。
サイドを刈り上げ、ツンツン頭にされた時は自分でも似合っていないと思いながら、ありがとう、そんなふうに笑顔で答えた。

 

家に帰り、驚いた親の顔が忘れられない。
しかもその時の一言、「お前、頭の形良くないんだね」
それから刈り上げたことは一度もない。

 

こんな若かりし日を思い出して気づくことがある。
それは、今も昔も僕の「所作」がまったく変わっていないということだ。

 

オシャレな洋服屋さんに入っても、高級なレストランに入っても、同じように行動している。
店員さんに勧められると断れない。
店員さんに気を使い、わかった風のいい客を演じてしまう。

 

そうかそうなのだ、僕は昔から変わっていないのだ。成長もしていない。
となると今の僕は、いつ頃出来上がったのだろうか?
もしかしたら、生まれた時から僕は僕だったのではないだろうか?
なんかおかしなことを言っている。

 

でもそうなのだ、僕は僕自身でしかない。
つまり僕は僕のことを受け入れるしかないのだ。

 

受け入れたうえで、どうするか、これが大事なのだと思う。
それなのに僕は僕自身を否定して、変えようなんて思ってしまう。
僕は僕自身なんだから変えようがないのに。

 

ふー、なんか大切なことを発見してしまったような気がする。
今日は僕が僕に気づいた誕生日だ。
まったく、何十年かかってるんだろうね、
まあ、これも歳をとったからわかることかもしれない。

 

頑張ろっと。。。

 

僕の心を震わせる何か

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すっかり季節は秋、というか肌寒い日が続き、あの寒い冬に向かっている。

 

なんか寂しい、もの悲しい、そんなふうに感じてしまうおセンチな季節。
なぜなのだろう?

 

そう思って考えると、一番の理由は陽がドンドン短くなっていくことだと気づく。
ついこの間まで、仕事を終えた18時から日没までの一時間が至福のビールタイムだった。
ベランダのアウトドアチェアに座り、夕焼け空を見ながら飲むビールは最高だ。

 

そういえば、9月末の中秋の名月の時は、南に向かって右手側はまさに陽が落ちる瞬間、空を赤く染めて一日が終わろうとしている。それに対して左側は早くも満月が空に耀き神秘的な光を放っていた。
こんな景色を右目と左目で一気に見られるこの瞬間ってスゴイ、そんなことを感じてしまうような素敵な光景だった。

 

必死になって、より目の反対、つまりそれぞれの目を外側に見開き、この奇跡の光景を満喫しようとするアホな私。どう考えてもおかしな人。

 

それだけの奇跡の光景が僕らのまわりに存在しているということ。そして、存在しているのだけれど、気づくか気づかないかはその人次第。
これってとても大事なことだと思う。

 

いつもの日常はいつもの日常ではない。
いつもの日常はいつもやってくるとは限らない。
そういうこと。

 

だから常に何かに気づけるように準備しておくことが大事。
だから僕は出かけるときもイヤホンで音楽を聴き続けたりはしない。
特別な瞬間に気づける自分でいたいから。
そんなことを思う。

 

そんなことを思うけど、いつもの変わり映えのしない日常を送っている。
でもそんな日常こそがそもそもスペシャルなのかもしれない。

 

きっと写真家や映画監督という人たちは、そんな日常を切り取ることの価値を知っている人たちだ。
それを人は芸術という。
おかしなもんだよね。

 

気づくか気づかないか。
誰にも訪れるその瞬間。
だったら自分でも気づいてみたいじゃないか。
誰もがそう思うはず。

 

芸術かどうかは見た人が決めればいい。
自分にとっての芸術とは何なのか。
それは自分の心を震わせる何か。
その何かはそこいら中にあふれている。

 

楽しいね。
楽しいじゃない。
僕の心を震わせる何か、世の中はそんな何かで溢れている。
絶対に気づいてやるからな、そんなふうに思う。

 

騙されちゃいけない

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自己啓発本、たくさんあるけど、どれだけ世の中の役に立っているのだろう。

 

とか言いながら、自分も何冊か読んだことがある。
ふーん、なるほどなーとか思ったり、自分が思っていたことが書かれてあると妙に納得感を得られたりする。
そんな人も多いのではないだろうか、本屋さんに行くとこのような本が一定のスペースを埋めている。

 

仕事に関するものが多いけど、他にも生き方や、人付き合い、お金持ちになるための方法など様々な本が並んでいる。

 

でもこういう本って、読み進めていくと大概が作者さんの自慢話に終着しちゃう。
話の途中から、自分はこうやって成功したとか、武勇伝とかになっちゃうパターンがほとんど、あげくの果てに自分のセミナーかなんかに誘ったりしちゃって。

 

まったく、商魂たくましいよなー。
たぶん、この手の人は純粋にビジネスとしてこういう本を出しているのだと思います。
だから、読者のための内容というよりも、自分が成功するための手段、なのでいつの間にか成功ものである自分の話になってしまう。

 

そんな本には、これからはこんなビジネスがお勧めとか、こんな株が成長株だなんて書いてあったりするけど、作者さんは自分のビジネスのために本を出しているわけだから、本当に儲かる話なんて公開するはずがない。

 

たぶん100万儲けようと考えているうちの10万儲けられる内容だけ公開して本を売り、残りの90万を設けるビジネスは自分が実行するのだと思う。
まあ、正しいと言えば正しい。だってビジネスなんだもの。

 

でも、それをわかった上で、自分が悩んでいることの参考にしたり、モチベーションを上げるために活用したりする分にはよいのだろう。
何事も自分で判断せよとのこと、人の言うことを鵜呑みにしてはいけないのだよね。

 

世の中には自分の功績を人に誇示したい、教えてあげたいという人たちがとっても多く存在する。
近くにもいますよね、教育熱心な教えたがり屋さん。

 

こういう人たちも二種類いると思います。
自分の功績を人に教えてあげたい、そして感謝されたい、感謝されて自己満足を高めたい。
もう一つは、自分が成し得たことを相手にも伝えてあげたい、要は自分が幸せだから相手も幸せになってほしい。
さてさて、皆さんはどちらの人から教えを請いたいでしょうか。

 

やっぱり後者さんですよね。
そして自分も後者のような人になりたいと思います。

 

前者さんは、自分が優先なんですね、自分が幸せになるために人を巻き込むなって話です。
だからね、ちゃんと見極めなきゃいけないのです。
難しいけど大事なこと。
やはり、自分が何をしたいか、何を知りたいか、何を成し得たいのか、自分の考えをもって取り組まねばいけないということなのだと思います。

 

流されやすく、人をすぐに信じてしまう私自身が特に心配です。だから肝に銘じていきたいと思います。

 

他人の目

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整髪料をつけるのをやめて見た。

 

若いころから、ムースやジェルで髪を固めていることが常だった。
くせ毛でまとまりにくい髪質だし、サラサラヘアでもない、何より目の前を髪がちらちらするのが嫌だった。
もう何十年もそんな髪型で過ごしてきたわけだが、ふと思って整髪料をつけるのをやめてみた。

 

髪の量も減ってきているせいだろうか、しっかり固めなくても特段不快感はない、少しパサついている感じはあるが許容範囲だろう。

 

これが何とも心地よい。
つまらないことだが、これまでは丸首のセーターなどの被り物が好きではなかった。
脱いだり着たりするたびに整髪料で固めた髪がばさばさになってしまう。
そんな不快感から解放された。

 

頭を触ったり触られたりするのも嫌だったのだが、整髪料をつけていないものだから何の問題もない。
強い風が吹こうが雨が降ろうが、まったく問題ない、これならオープンカーも大丈夫だろう。

 

それにしても一番意外だったことは、整髪料をつけるのをやめたことを誰からも指摘されなかったことだ。会社の誰からも、そして家族からも・・・。
これって・・・、よく言われることだが、自分が思うほど人は自分を見ていないということだと思う。

 

そう思ったら、なんか余計に気が楽になった。
不思議なことにもっとオシャレをしたくなった、色んな洋服、ちょっと派手なものも着てみたくなった。

 

これまではオッサンはオッサンらしく、ビジネスマンはビジネスマンらしく、みたいなことを気にして洋服を選んでいた。
でもそんなことを気にしているのは自分だけなのだ。

 

なんという発見だろう。
今まで何をつまらないことにこだわっていたのか。

 

そう思い、最近はせっせと洋服を買い漁っている。
もちろん僕のことだから、失敗もたくさんある。
でもいいじゃないか、みんな僕の事なんか、たいして見ていない、気にしてやいないのだから。

 

最近、他にしてみたいことがある。
タンニングっていうのだろうか、要は日サロだ。
真っ黒に日焼けした肌、ステキじゃないか。

 

Webで近所の日サロの店をいくつか見てみる。
なんとなくチャラい感じの店が多いようだ。時節柄、感染対策なんかも気になる。
一番のハードルは、僕がそのような味に足を運ぶ度胸が持てるかだ。
う~ん、怖い・・・。

 

日に焼けた健康的な肌でさっそうと街を闊歩してみたい。
そんな誘惑を実現できる度胸があるか。
毎日妄想と格闘している、そんな日々だ。

 

あたらしい季節

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なんか今年の夏は短かったような気がする。

 

暑い暑いと言っておきながら、気楽なものだけどそう思う。
長梅雨だったから、暑くなったのは実質7月に入ってから。
無茶苦茶、暑かったのはオリンピック期間中くらいだったのではないだろうか。
一体なんだってこんな時期にオリンピックを開催したのだろう。

 

運動会は春か秋に行われる行事と決まっている。
体育の日は10月10日(今は違うか)、前回の東京オリンピックの記念日だ。
今日は10月9日、今週は台風一過で秋晴れの一週間、スポーツに最適な気候。
本来ならば、あちらこちらで運動会が開催されている季節。
残念ながら、そんな風景はまだ見ることができない。

 

さぞかし、みんな残念がっているのだろう。
とか何とか言いながら、僕が子供の頃を思い返すと、自分は運動会が嫌で嫌でしょうがなかった。

 

なぜかって?
そりゃ運動音痴だから。
足だって速くないし、スポーツ全般が苦手、それなのに人よりカッコよくなりたい、カッコつけたいおめでたい自分だったからから、運動会は苦痛でしかなかった。
運動会で活躍する奴らはヒーローだ、リレーの選手に選ばれて最後の周回で大逆転なんて奴を見ると羨ましくて仕方がなかった。

 

こんな僕だから、運動会当日は雨が降ればいいのにとか、なんか事件が起きて中止になればいいのにとか、そんな事ばかりを考えていた。
だから、このコロナで運動会が開催されない状況は、当時の僕にとっては願ったりかなったりの状況だったに違いない、ほんと子供らしくない子供、自分でもそう思う。

 

でも実はそんな子供も結構な数いるのではないだろうか、そんなことも思う。
そして、今の世の中、実は同じような考えに至っている大人もたくさんいるような気がする。

 

会社に行きたくない、客先に行きたくない、そんな大人たちにとっての免罪符、それがコロナであり、自粛生活。
運動会が中止になればいいのに、そう願っていた子供と同じように、大人の世界でも、これまでだったら当たり前のようにすべきことに免罪符が与えられている。
こんな社会がずっと続けばいいのに、そう思っている人も結構な数いるに違いない。

 

こんな社会の状況だもの、感じ方は人それぞれ。
それなのにいつもの日常に戻りたい、そんなステレオタイプな声しか聞こえてこないし、報道されない。
なんか騙されてない?そんなことを思う。
こうしなきゃいけない、以前はこうだった、こうあるべき、当たり前のように言われるけど、僕らのことは僕らが決めるべき。
本当はこの機会に僕らはどのような社会を望んでいるのか、求めているのかもっと考えるべきではないかと思う。
実は世の中が変わる空前絶後の大チャンス、僕らはそんな季節に身を置いているのかもしれない。

 

総理大臣も変わったらしい。
派閥で選ばれただけ、そんなことも言われているが、基本的に政治家は社会を変えたくて、より良い世の中にしたくて政治家になったはず。
だから、かつての日常を取り戻す、そういうことではなくて、これからの新しい社会を作り出す、そんなふうに考えてほしい。
そのためには僕ら自身も自分ごととして考える。

 

子供の頃の僕のように、運動会の中止を喜んでいる人や、自粛生活に満足している人たちだって、いつまでも今のままではいられない。
新しい明日をどう生きるか、それは新しい明日をどう創るか、それは自分自身なのだということ、こんな時だからこそ真剣に考えるべきだ。
運動会のない秋晴れの休日、そんなことを思ってみた。

 

隣の芝生は

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どうにも頭がモヤッとしている。

 


これもあのワクチンのせい、いやコロナのせいだ。
ワクチンを打ってからというもの、しばらくの間、何もする気が起きなかった。
考え事をしようという気がしない。
仕事も頭に入ってこない、こんな雑文ですら書く気にならない。

 


正直、ワクチンを打って後悔した。
こんなに副反応が強いのだもの、カラダにいいはずがない。あれは毒に違いない(製薬会社の方、申し訳ありません)。
三回目のワクチンを打つ日が来るのかもしれないが、どうしたものか。
もう打ちたくないというのが偽らざるココロ、だってつらいのだもの。
巷に出回るワクチンのデマを信じる気はさらさらないが、本当に安全なものなのかは疑問に思ってしまう。

 


それにしてもこのワクチン、打った人はみんな、こんな状況になっているのだろうか。
それとも、大人だから泣き言など言わずに我慢できているのだろうか、不思議だ。

 


二年前に手術した時、麻酔が切れるとお腹の傷が痛くて痛くてしようがない、先生に泣きごとを言い続けた。すると先生は、男の人は痛みに弱いのかなあ、そんなことを言った。
こんなに痛いのに僕の我慢が足りない?大人はもっと我慢しなくてはいけないのだろうか、もしかしたら女性は出産も経験しているから、こんな痛み位で泣き言は言わないのだろうか?色んなことを考えてしまったが、痛いものはしょうがない。
麻酔を追加してもらい、何とか落ち着いたのだが、ひどく自分が情けなく感じた。
実際、僕の耐性は人より低いのかもしれないと思う。

 


そんなこんなで迎えた三連休、どこにもいかずに家で待ったり過ごした。
幸せな時間。
テレビをつけると大谷選手の試合が中継されている。

 


アメリカの球場はキレイだなー、いつもそんなことを思う。
何がキレイかって、球場の芝生が美しい。
だからなのか、そのフィールドでプレイしている選手も楽しそう。おのずと、そのプレイを応援するファンも楽しそう。

 


そうなんだよな、日本のプロ野球を見ていても何か特別感がない。
なんといっても人工芝だ、あの薄汚れた感じが特別感をスポイルしている。
なんだか体育館に引かれたマットの様だ、興行的な仕事感を感じさせてしまう。

 


メジャーリーグが面白いのは芝生の上でプレイしているからだと思う。
球場が素晴らしいから、特別な場所だから、選手も観客もみんなが楽しめる。
大勢の観客がビール片手におもいおもいの応援をしている。
僕の好きなサッカーもそうだ、あの天然芝の美しさと匂い、あれが人工芝だったらとたんに魅力は半減してしまうだろう。

 


テレビに映る観客にマスクをしている人はいない、みんなワクチンを接種済みなのだろう。
既に普段の日常を取り戻しているように見える。

 


考えて見れば今年はJリーグの試合を一試合も見に行っていない。
ワクチンを打つことによって、また、ビールを飲みながらサッカーを見ることができる日がやってくるのかもしれない。

 


うーん、何とも複雑な気分だ。
極めて人工的なワクチンを打って、天然芝の上でプレイする選手たちを応援する、あのスタジアムの特別な瞬間、日常を取り返す。

 


そんな時代なのかな。
隣の芝生は良く見える、よく言ったものだ。

 


それでも僕らは人工的なものに頼らず、自分の免疫を高めていかなければならないと思う。神経質に手指を消毒ばかりしていてもいいものか、かえって自分の免疫力を低下させてしまうのではないだろうか。実際、清潔にしすぎることで子供の耐性が低くなっていると危惧する声もあるらしい。

 


こんな時代、なにが正解かなんて誰にも分らない。
でも自然を大事にすること、一緒に暮らすこと、共生すること、そうやって生きてきたということを忘れてはならないのだろうな、そんなことを思う。

 

まずは自分から

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昨日、プレミアリーグアーセナルに入団した冨安選手が活躍したらしい。
そういえば、大谷選手も44号のホームランを打っていた、投手として10勝目はならなかったようだけど、相変わらずスゴイもんだ。

 


こんな日本人の活躍を見るたび、なぜだか誇らしい気持ちになってしまう。
なぜだか自分ごとのように一生懸命応援してしまう。
おかしなもの。

 


同じ日本人といっても、もちろん知人でもないし、親戚でもない。
会ったこともない見ず知らずの人。
それなのに日本人だからというだけで、勝手に自分の同級生のような感覚で応援している。
これってなんなのだろう?

 


同じ国の出身者なのだから応援して当たり前、そういうことなのだろうが、よくよく考えると不思議なもの。
サッカー選手なら、そのプレイで好き嫌いになるのならわかる、応援しているチームの選手だから好きになるのも分かる、でも日本人だからというのは。。。

 


きっと、僕らは知らず知らずのうち、欧米の人たちに対してコンプレックスを持っているのだと思う。
だから自分と同じ日本人が活躍すると嬉しい、ついつい喜んでしまう。
欧米の人から日本人が認められると嬉しいんだ。

 


ニュースでも、いつもそんな報じ方をされている。
大谷が現地メディアで称賛されている、同じメジャーリーガーたちがこう言っている。

 


いい加減、こういう文脈の報道から卒業したいよね。
もうそんな時代じゃない。
アメリカ人だろうが、日本人だろうが、すごい人はスゴイ。
だから称賛される。
それ以上でも以下でもない、それでいいの。

 


そう思うことで初めて、冨安選手や大谷選手のすごさの本質を感じることができるのだと思います。
考えて見たら、同じ日本人だからというだけで喜んでいるということは選手にとっても失礼なこと。
そんなふうに感じられたらなと思います。

 


何ごとも本質を感じていきたいな。
みんながそういうふうに思ってもらえる世の中になってほしい。
そうすれば、きっと楽しいことがたくさん起こると思います。
まずは自分からかな。
がんばろっと。

 

こりゃ大変だ

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酷い目にあった。。。

 


何がって、コロナです。
感染したのじゃありません。
ワクチン、聞いてはいたけど副反応、こんなに酷いとは思わなかった。。。

 


金曜日の夕方、テレワークを一時中断して区役所の公会堂で二回目の接種。
ファイザーのワクチン。
一回目の時はワクチンを打った方の腕が翌日あがらなかったくらい。
だから二回目もたいしたことはないだろうと思っていた。

 


それがそれが、その日の夜、どうにもこうにも何か変な感じ。
明け方には変な夢まで見てしまい、これって風邪の時と同じ症状。
そう思い、朝起きて熱を測ると38.3度。
キター!そう思い、すぐに解熱剤を飲みました。
するとあっと言う間に熱は下がり37.3度、いたって普通の状況に。
そのまま午前中は普通に家で仕事。
やっぱり熱は出るんだなー、そんな印象。

 


それが。。。昼を過ぎるとなぜか悪寒が走り出し、熱を測ると39度。
これはいかんと思い、再び解熱剤を飲むのですが、今回は効かない。
熱は38度台前半のまま、ほぼ一日中寝込み、今朝何とか熱が下がった次第。
いまでも頭が何かモヤッとしてるし体の節々が痛い。

 


いやー、こんなふうになるとは思わなかった。
本当にワクチン大丈夫なんでしょうか、毒を打たれたとしか思えません。
本当に実は毒なんじゃないだろうか?

 


そもそも予防接種って、小学生の時からしたことない、実はインフルエンザも罹ったことが無い。
だからコロナも大丈夫と勝手に思っていたのですが(こういうのが一番危ないのでしょうね)、コロナにかかる前にワクチンでこんなに苦しむとは思わなかった。
なんかもう、コロナに感染してしまったような気分です。

 


しかし、身体にこれだけの負担をかけて免疫を作り出すのですから、コロナがどれだけ強力な奴かわかるような気がします。
それにしても、このワクチン、僕の体に投入されて、いったいどこでどんなことが起きているのでしょうか。
色んなことをしているから、これだけの拒否反応が起きるのでしょう。

 


ワクチンは安全です、そんなイメージ広告ばっかりやっているけど、どうして安全なのか、
どういうものでどのような作用をするものなのか、もっとキチンと説明してほしいよね。
そういう科学的な説明がないから、ワクチンやばいのじゃないか説が出るのだろうし、信じる人も出てくるのだと思う。

 


それにしてもこのワクチン、三回目を打つ必要があるとか、今後は定期的に打ち続ける必要があるとか言われるけど、正直、僕はちょっとと思っちゃったな。

 


こんなワクチンを全人類が必要とする時代が来てしまったとは、いつ何が起こってもおかしくないよ。
こりゃ大変だ。

 


自分ごとになって初めて大変さを知るわけです。
結局、自分ごとにならなきゃ大変さを理解できないということでもあるんだよね。
もっと想像力を働かさなきゃね。

 


まずはビール飲んで頭をすっきりさせましょう。
昨日は何か月ぶりかに飲まない一日だったのだもの。

 

人生は続く

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3月にフジテレビの「とくダネ!」が終了した。
司会の小倉智昭さんは22年間もこの番組を続けていたらしい。

 


小倉さんは74歳、ということは52歳でこの番組をスタートさせたということだ。
ふへー、すごいよね、まさにセカンドライフ、第二の人生がこの番組だったのでしょう。
この番組に出るまで小倉さんといえば、声での出演、ナレーションが中心だったのではないでしょうか、「世界まるごとHOWマッチ」とかね。

 


それにしても52歳から、こんなことができるなんて、すごいと思う。
単純な僕は、こんな歳からでも色んなことができるんだ、そう思ってしまった。

 


うちの会社は役職定年という制度があって、55歳になるとラインの管理職から離れる決まりになっていた(今年からなくなった)。
だから、この歳になるとみんな子会社や関連会社に転籍していった。
どんなに優秀であろうが関係ない、一握りの役員以外はみな同じ。

 


もちろん残る人もいるが、部下のいない専門職として、こじんまりと仕事をすることになる。
不思議な制度だと思う。
でもこの歳になる人は、俺ももう約定だから、そんなことを言いながら別の会社に移っていく。そしてその会社で管理職としてサラリーマン生活を終了させるのだ。
ある意味、本人の言い訳にもなっている。
もうこれ以上出世できないからこの職場を離れます、約定があるから仕方がない、みたいな感じ。

 


これは会社にとっても都合のいい制度、給料の高い管理職を社外に出すための理由にもなってきた。
この制度は今年から無くなったが、優秀な人もそうでない人も、ずっと勤めていられるということではなくて、パフォーマンス次第でクビを切りますということだと思う。
一律に約定だからと、別の会社に移れる環境自体が無くなってきているのだ。

 


僕の勤める会社には、こんな制度というか風習があるものだから、小倉さんが52歳から第二の人生をはじめ、22年間も全うしたということに驚いた。
本当にすごいものだと思う。
やっぱり、会社の当り前を当たり前と思ってはいけないということを痛感する。

 


さてさて、僕のセカンドライフはどうなるのだろう。
今の会社にしがみ続けるのか、それとも。。。

 


まあ、まずはビールでも飲んでから考えるとするか。
今を生きることが先だよね。
ふー。